北本市史 資料編 原始

全般 >> 北本市史 >> 資料編 >> 原始

第2章 遺跡の概要

第3節 赤堀川流域の遺跡

第三節赤堀川流域の遣跡
中山道から東側の地形は、大宮台地上でありながらもわずかに東へ傾きつつある。中山道辺りが最も高く、標高二二~二七メートルを測るが、台地の東辺では一五メートル前後であり、また、谷地の部分は一二メートルとなってしまう。このような地形の傾きは、関東造盆地運動に起因するものである。
赤堀川は、この中山道の東側地域の降水を集水して流れる元荒川の支流であり、その水源は鴻巣市下谷にあり、東南に向かって流下し、桶川市加納字五丁台および蓮田市高虫において元荒川に合流する全長四・五キロメートルの川である。『新編武蔵風土記稿』によれば、「鴻巣領廿四ヶ村の悪水路なり(中略)川幅五間許(ばか)り」とある。市域の流域としては、北から深井・東間・宮内・山中・古市場・常光別所・花ノ木・北中丸の地区がある。しかし、南部の北中丸は綾瀬川の源流地帯にあたるともいえるが、立地環境上、大きな差異はないので、便宜上赤堀川流域としておく。
以上のように、北本市の東部すなわち中山道から東側の地形は、全体的には東辺を流れる赤堀川に向かってわずかに傾斜している。荒川流域の台地上と異なって、谷の数も少ないし、谷の発達も浅い。谷筋の系統は、大きく二系統あって、一本は桶川市篠津との境となっている赤堀川の支谷であり、もう一本は市域の中東部の懐に湾入してくる綾瀬川の源流部の浅い谷である。赤堀川の谷は、下流部では谷幅約五〇〇メートルあって、かっては鲤沼・篠津沼などの沼湿地となっていた。上流部では支谷は東西二本になっており、浅い典型的な台地谷の景観を示し、北本市側は谷田用水が流れる支谷である。この支谷から西へ向かって、小さな支谷や湾入部が七~八か所ある。
赤堀川流域の遣跡は、これらの支谷や湾入部、綾瀬川源流部に立地するものである。平成元年までにこの流域で確認された遺跡は、一六か所にのぼる。地形の起伏も少ないので、大きな遺跡はないとみられてきたが、最近の調査例からみると、必ずしもそれはあたらないようである。たとえば、馬背状の台地中央部に見つかった旧石器時代の提灯木山(ちょうちんぎやま)遺跡や、古市場地区で発掘された縄文時代〜古墳時代の上手遺跡、および最近相ついで確認された中世の館跡などの存在は、赤堀川流域の考古学上の位置を高めることになったからである。縄文後晩期の泥炭層遺跡で著名となった後谷(うしろや)遺跡は、この水系の下流部に存在している。
この章では、中世の館跡を除く一三遺跡について説明する。なお、中世の館跡については、「第三巻下古代・中世資料編」の第三章第一節城館跡の稿で取り扱っている。

写真103 赤堀川流域の低地

<< 前のページに戻る