北本市史 資料編 古代・中世

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第1章 古代の武蔵と北本周辺

天平宝字二年(七五八)八月二十四日
新羅の僧俗七四人を武蔵国の閑地に移し、新羅郡を置く。以下、関連史料を掲げる。
10 続日本紀 〔新訂増補国史大系〕
八月癸亥、帰化新羅僧三二人、尼二人、男十九人、女廿一人、移武蔵国閑地、於是、始置新羅郡焉
 
11 続日本紀 〔新訂増補国史大系〕
(天平宝字四年四月・七六〇)
戊午、置帰化新羅一百三一人於武蔵国
 
12 続日本紀 〔新訂増補国史大系〕
(天平宝字五年正月・七六ー)
乙未、令美濃・武蔵ニ国少年、毎国廿人習新羅語、為征新羅也
[読み下し]
10八月癸亥(二四日)、帰化の新羅僧三二人、尼二人、男一九人、女二一人を武蔵国の閑地に移す、ここに、初めて新羅郡を置く
11戊午(二十八日)、帰化の新羅一三一人を武蔵の国に置く
12乙未(九日)、美濃・武蔵二国の少年をして、国毎に二〇人に新羅語を習わしむ、新羅を征せんがためなり
〔解 説〕
史料10は、新羅から渡来した僧尼および俗人の男女合わせて七四人を、武蔵国の空閑地に移住させ、新しく新羅郡を置いたという記事である。『新編武蔵風土記稿』によると、新羅郡設置の際の新羅人は、『続日本紀』天平五年六月二日条に見える埼玉郡にいた者が再移住したものであろうとする見解を示しているが明らかでない。新羅郡の名称はその後改められ、延長五年(九二七)に成立した『延喜式』には新座郡と郡名が改称されている。
史料11は帰化新羅人一三一人を武蔵国に移し、史料12は新羅人の子弟二〇人を選び出し、新羅語を習得させようとするものである。これは恵美押勝の新羅征伐の計画を反映したものであるが、押勝が反乱により敗死するとこの計画は中止された。

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