北本市史 資料編 古代・中世

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第1章 古代の武蔵と北本周辺

天平宝字二年(七五八)十二月八日
坂東の騎兵・鎮兵・役夫・夷俘を徴発して、陸奥国の桃生城・小勝柵を造営させる。
13 続日本紀 〔新訂増補国史大系〕
丙午、徴発坂東騎兵、鎮兵(1)、役夫、及夷俘(2)等、造桃生城(3)・小勝柵(4)、五道俱入、並就功役
〔読み下し〕
13十二月丙午、坂東の騎兵・鎮兵・役夫および夷俘等を徴発して、桃生城・小勝柵を造らしむ、五道俱に入りて、ならびに功役を就す
〔注〕
(1)奈良時代から平安初期にかけて、陸奥・出羽両国に配された蝦夷征討の兵士
(2)奈良〜平安初期に順化の程度によって区別された蝦夷の呼称、俘因に対することば
(3)現在の宮城県桃生郡河北町においてその造構が確認されている。蝦夷征伐のための城柵
(4)小勝柵の設けられた地については、現在の秋田県湯沢市とも同県雄勝郡羽後町ともいわれ、明確な場所は不明
〔解 説〕
史料は、坂東の騎兵・鎮兵・役夫・夷俘を徴発して、陸奥国の桃生城・小勝柵を造営させたという記事である。武蔵を含む坂東地域は、蝦夷地と境を接していたため、蝦夷征討の軍事基地、食糧・武器の供給地として、その負担は農民に課せられ、農民生活を苦しめた。この史料も、養老四年(七二〇)の蝦夷の蜂起以来とられてきた対蝦夷対策の一つであるといえよう。
この後、『続日本紀』天平宝字三年(七五九)九月二十七日の条によると、坂東など一二か国の浮浪人二〇〇〇人が雄勝柵戸に遣わされ、また、武蔵国など七か国から送った武器が桃生城・雄勝柵に貯えられた。

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