北本市史 資料編 古代・中世

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第1章 古代の武蔵と北本周辺

天平宝字八年(七六四)十月七日
足立郡出身の丈部直不破麻呂が恵美押勝討伐の功により外従五位を授けられる。以下丈部直氏一族の活躍関係史料を一括して掲げる。

14 続日本紀 〔新訂増補国史大系〕
(天平宝宇八年十月・七六四)
庚午、詔加賜親王大臣之胤、及預討逆徒諸氏人等位階(中略)正六位上(中略)安曇宿禰三国(中略)並従五位下、(中略)正六位上(中路)丈部直不破麻呂(中略)並外従五位下
 
15 続日本紀 〔新訂増補国史大系〕
(神護景曇元年八月・七六七)
丙午、(中略)外従五位下丈部直不破麻呂為下総員外介、近衛員外少将如故、従五位下弓削御浄朝臣広方為武蔵員外介、中衛将監如故
 
16 続日本紀 〔新訂増補国史大系〕
(神護景曇元年十二月・七六七)
壬午、武蔵国足立郡人外従五位下丈部直不破麻呂等六人賜姓武蔵宿禰
 
17 続日本紀 〔新訂増補国史大系〕
(神護景曇元年十二月・七六七)
十二月甲申、外従五位下武蔵宿禰不破麻呂為武蔵国国造
 
18 続日本紀 〔新訂増補国史大系〕
(延暦六年四月・七八七)
四月乙丑、武蔵国足立郡釆女掌侍兼典掃従四位下武蔵宿禰家刀自卒
 
19 続日本紀 〔新訂増補国史大系〕
(延暦七年六月・七八八)
辛丑、外従六位下武蔵宿禰弟総、外正八位上多米連福雄並授外従五位下、以貢献也
 
20 類聚国史(1) 〔新訂増補国史大系〕
(延暦十四年十二月・七九五)
十二月戊寅、武蔵国足立郡大領外従五位下武蔵宿禰弟総(2)為国造
〔読み下し〕
14庚午(七日)、詔して、親王大臣の胤、及び逆徒を討つに預かる諸氏の人等に位階を加え賜う、(中略)従五位下安曇宿禰三国に(中略)並に従五位上を、(中略)正六位上丈部直不破麻呂に、(中略)並に外従五位下を授く
15丙午(二十九日)、(中略)外従五位下丈部直不破麻呂を下総員外介となし、近衛員外少将故の如し、従五位下弓削御浄朝臣広方を武蔵員外介となし、中衛将監故の如し
16壬午(六日)、武蔵国足立郡の人外従五位下丈部直不破麻呂等六人に、姓を武蔵宿禰と賜う
17十二月甲申(八日)、外従五位下武蔵宿禰不破麻呂を武蔵国の国造と為(な)す
18四月乙丑(十一日)、武蔵国足立郡の采女掌侍兼典掃従四位下武蔵宿禰家刀自卒す
19辛丑(二十五日)、外従六位下武蔵宿彌弟総、外正八位上多米連福雄に並に外従五位下を授く、貢献を以てなり
20十二月戊寅(十五日)、武蔵国足立郡の大領外従五位下武蔵宿禰弟総を国造と為(な)す
〔注〕
(1)るいじゅうこくし 平安前期に菅原道真(すがわらのみちざね)が六国史のうち『日本三代実録』を除く五国史の記事を神祇・帝王・後宮・歳時・音楽・政理など事項別に分類し、年代順にならべて編集した史書である。寛平四年(八九二)に成立し、もと本編二〇〇巻・目録二巻・帝王系図三巻があったと伝えられるが、現在六一巻・抄出本一巻が残っている。『日本三代実録』の部分は後人の補筆による。
(2)むさしのすくねおとふさ 武蔵国造の出身で、足立郡司丈部不破麻呂の子、釆女掌侍兼典掃の武蔵宿禰家刀自の弟。武蔵宿禰の姓は、足立郡の丈部直不破麻呂ら六人に与えられたもので、史料19・20によると弟総も武蔵宿禰(すくね)を名乘り、武蔵国造に任命されている。父と姉の奈良朝廷との関係や貢献の功で、延暦七年(七八八)に外従られ五位下に叙せられ、同十四年(七九五)武蔵国造に任ぜられた。
〔解 説〕
奈良朝に活躍の見られる武蔵出身の二大豪族として足立郡出身の丈部直氏と、入間郡出身の物部直氏がいる。両氏は孝謙女帝に武人として仕え、恵美押勝の反乱に軍功を挙げ中央官人(武人)として活躍する。ここでは市域隣接の足立郡の豪族丈部直氏の関係史料を掲げる。
正六位上丈部直不破麻呂が、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱平定に活躍した功により、外従五位下に叙せられた(史料14)。
丈部直家は武蔵国足立郡の郡司を歴任した名家で、朝廷より厚く重用され、武蔵国造となる。すなわち史料15に見られるように不破麻呂は、神護景曇元年の八月二十九日、近衛員外少将のまま下総員外介に任じられ、同年十二月六日一族六人と共に、武蔵宿禰の姓を賜った(史料16)。またこの二日後の十二月八日には、武蔵国造に任命されている(史料17)。不破麻呂はこの後、神護景雲三年(七六九)六月に上総貝外介となり、ついで冋年八月には内位の従五位上に叙せられている。そLて、宝亀四年(七七三)には、左衛士員外佐として奈良の佐保川堤の修理にあたっている(寧楽遺文)。
地方豪族にすぎなかった不破麻呂が、外位から内位に昇叙せられ、しかも中央官人に登用されるといった異例の昇進を遂げた背景には、不破麻呂の娘である武蔵宿禰家刀自の存在があった。
史料18は延暦六年(七八七)四月、武蔵国足立郡出身の釆女(うねめ)で、後宮女官職の掌侍と典掃を兼務し、従四位下の官位を有する武蔵宿禰家刀自が没したと伝える。家刀自は不破麻呂の娘で、采女に貢進され(西角井系図)、延暦二年(七八三)従五位下から正五位下、同四年に正五位上、その後従四位下と異例の昇進をとげた。釆女は、郡の少領以上の姉妹や子女のうち特に容姿端麗なものが撰ばれて後宮の女官となったものであり、当初は地方豪族の出身者として栄進はのぞめなかった。しかし、その職掌上天皇に近侍したため、しだいにその勢力を拡大し、八世紀になると家刀自のように出世する者もあらわれてくるようになった。家刀自の父である不破麻呂ら一族も、彼女を通して天皇との私的関係を強め、自家の地位の向上につとめたと思われる。しかし、延暦六年四月十ー日に家刀自は死去すると、以後、武蔵氏の中央における勢力は急速に後退する。弟に当たる武蔵宿瀚弟総が延暦七年(七八八)六月二十五日に私財貢献により外従五位下に叙せられ(史料19)、同十四年(七九五)十二月に武蔵国造に任ぜられたこと(史料20)を最後に、史料からその姿を消してしまう。大宮市西角井家蔵の「武蔵国造系図」によれば、平将門の乱(史料35あ照)に登埸する武藏武芝は、この一族の後裔であるとしている。

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