北本市史 資料編 古代・中世

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第1章 古代の武蔵と北本周辺

神護景雲二年(七六八)三月一日
下総国井上・浮島・河曲の三駅、武蔵国乗潴・豊島の二駅に、中路に準じて馬ー〇疋を置く。

21 続日本紀 〔新訂増補国史大系〕
(神護景曇二年三月一日)
乙巳朔(中略)下総国井上(1)・浮島(2)・河曲(3)三駅、武蔵国乗潴(4)・豊島(5)二駅、承山海両路(6)、使命繁多、乞准中路(7)、置馬十疋、奉勅依奏(後略)
〔読み下し〕
21乙巳朔(中略)下総国井上(いのかみ)・浮島(うきしま)・河曲(かわわ)の三駅、武蔵国乗潴(のりぬま)・豊島の二駅、山海両路を承けて使命繁多なり、乞う、中路に准じて馬十疋を置かんと、勅を奉るに奏に依れ
〔注〕
(1)千葉県松戸市、都内墨田区墨田寺島、または越谷市及び三郷市、吉川町付近か
(2)千葉県千葉帀幕張、都内墨田区小松、北葛飾郡鷲宮町または春日部市付近か
(3)千葉市寒川町、または北葛飾郡幸手市付近か
(4)羽生市岩瀬、都内杉並区天沼、または大宮市天沼付近か
(5)都内北区王子、または千代田区神田付近か
(6)東山道、東海道の両道
(7)令制では、官道に大路・中路・小路の別があり、東海道と東山道は中路とされた。
〔解 説〕
史料は東海道巡察使紀広名が下総国の井上・浮島・河曲の三駅と武蔵国の乗潴・豊島の二駅は、いずれも東山道・東海道両路に連絡する要路であり、交通も繁多であるので、駅馬を中路に準じて一〇疋を置くことを要請し許可されたことを伝える。当時の七道諸国間を結ぶ官道には、大路・中路・小路の別があった。大路は山陽道、中路は東海道と東山道、小路は北陸・山陰・南海・西海の諸道であった。令の規定によれば、これらの官道には三〇里(二〇キロメ —トル)ごとに駅家が設けられ、大路の場合は二〇疋、中路では一〇疋、小路では五疋の駅馬が置かれることとなっていた。井上・浮島・河曲・乗潴・豊島の諸駅の位置については、注に示したとおりそれぞれ諸説があって一致しない。いずれにしても、これらの諸駅は東山・東海両道につながる駅路に設けられていたのであるから、武蔵・下総・上野の各国府を結ぶ位置にあったといえる。

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