北本市史 資料編 古代・中世

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第1章 古代の武蔵と北本周辺

宝亀二年(七七一)十月二十七日
武蔵国が東山道から東海道に編入される。

22 続日本紀 〔新訂増補国史大系〕
己卯、太政官奏、武蔵国雖属山道(1)、兼承海道(2)、公使繁多、衹供(3)難堪、其東山駅路(4)、従上野国新田駅、達下野国足利駅(5)、此便道也、而枉従上野国邑楽郡、経五ケ駅(6)、到武蔵国、事畢去日、又取同道、向下野国、今東海道者、従相模国夷参駅(7)、達下総国、其間四駅(8)、往還便近、而去此就彼損害極多、臣等商量(9)、改東山道、属東海道、公私得所、人馬有息、奏可
〔読み下し〕
22己卯(二十七日)、太政官奏すらく、武蔵国は山道に属せりと雖も、兼ねて海道を承(う)け、公私繁多にして衹供(しきょう)堪え難し、それ東山の駅路は、上野国新田駅より下野国足利駅に達す、これ便道なり、而るに枉(まげ)て上野国邑楽郡より五ケ駅を経て武蔵国に到り、事畢(おわ)って去る日、又同じ道を取りて下野国に向う、今東海道は、相模国夷参(いさま)駅より下総国に達す、その間四駅にして往還の便近し、而るに此を去り彼に就くこと損害極めて多し、臣等商量するに、東山道を改め東海道に属さば、公私所を得て人馬息すること有らんと、奏可す
〔注〕
(1)東山道のこと
(2)東海道のこと
(3)謹んで駅に人馬を供給すること
(4)群馬県太田市付近に置かれた駅
(5)栃木県足利市付近に置かれた駅
(6)五か所の駅、もしくは五箇駅。五箇駅とすれば群馬県邑楽郡千代田村付近に置かれた駅名
(7)神奈川県相模原市付近に置かれた駅
(8)武蔵国の店屋(まちや)(都下町田市付近)・小高(川崎市付近)・大井(品川区付近)・豊島(台東区付近)の四駅
(9)はかり考えること
〔解 説〕
東山道に所属していた武蔵国を、官道の便宜を図るために朝廷の承認により従来の行政区画を変更し、東海道に編入しようとしたものである。その理由は、武蔵国はもと山道(東山道)に所属していたが、以前より相模からの海道(東海道)も利用されており、両道の通行をうけていてその負担は堪え難いほどであった。本来、東山道の道筋は、上野国新田駅(群馬県太田市)から下野国足利駅(栃木県足利市)に直行するのが便利である。しかし、武蔵国が東山道に属していたため、やむをえず上野国邑楽郡(群馬県館林市付近)から南下して「五ケ駅」を通って武蔵国の国府(東京都府中市)に行き、再び同じ道を引き返して下野国の国府(栃木県栃木市)に向かっており、官使にしても農民にしても交通は不便である。しかるに今、東海道は相模国夷参駅(神奈川県座間市付近)から下総国の国府(千葉県市川市)に達しており、その間の駅は四つで交通の便がよい。そこで、武蔵国を束山道に所属させておくと損害ばかりが多いので、東海道に編入すべきであるというのである。
武蔵国は古墳時代は上毛野文化と関係が深く、また南部は湿地が多く交通不便で、東山道が利便であった。しかし、律令時代には国衙が府中に置かれ、南部の開発も進み陸路も整備安定化したので、政治的にも経済的にも重要度を増した東海道に編入したのである。
ただここでいう「五ケ駅」とは、特定の駅名とする説と五か所の駅と解する説がある。前者は、茨城県猿島郡五霞村や群馬県邑楽郡千代田村上五箇の地をそれに比定し、五か所の駅とする説では、史料21に見える下総国の井上・浮島・河曲の三駅と、武蔵国の乗潴・豊島の二駅がこれに当たるとしている。

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