北本市史 資料編 古代・中世

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第1章 古代の武蔵と北本周辺

辛亥年(四七ー)七月
この年、稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣に一一五文字の銘文が刻まれる。

2 稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣
     〔埼玉県立さきたま資料館蔵〕
(剣身・錯銘)
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖(1)名意富比垝(2)、其児(名脱カ)多加利足尼(3)、其児名弖已加利獲居(4)、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児各半弖比、其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々(5)為杖刀人首(6)奉事(7)来至今、獲加多支鹵大王(8)寺(9)在斯鬼宮(10)時、吾左治(11)天下令作此百練利刀(12)、記吾奉事根原也
〔読み下し〕
2 (表面)辛亥の年七月中、記す、ヲワケの臣(おみ)、上祖(かみつおや)、名はオホヒコ、其の児(こ)、タカリのスクネ、其の児、名はテヨカリワケ、其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ、其の児、名はタサキワケ、其の児、名はハテヒ
  (裏面)其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ、其の児、名はヲワケの臣、世々、杖刀人の首と為(な)り、奉事し来り今に至る、ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王(おおきみ)の寺(じ)、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也
〔注〕
(1)カミツオヤ 遠祖の意
(2)オオヒコ  人名、オオヒコは記紀の系譜では孝元天皇(人皇第八代目)の子とみえ、阿部臣・膳臣・阿閇臣・狭狭城山君・越国造・伊賀臣ら七族の始祖とされる。また、一般に遠祖をオオヒコと呼ぶこともあるとして、実在説と非実在説がある。
(3)タカリノスクネ 人名、「足尼」は後の姓(カバネ)を示す宿禰の古い表記法
(4)テヨカリワケ 人名、「獲居」には王族の姓とする説、ヤマトの大王勢力下の地域における首長の称号とする説、国造等の地方官の官職的地位を表わす説等がある。
(5)代々
(6)「杖刀」は刀を杖つく意、仗剣に同じ。大王の親衛隊長の意
(7)長上の者に仕えること
(8)ワカタケ(キ)ル(ロ)大王 日本書紀の大泊瀬幼武天皇、古事記の大長谷若建命、すなわち雄略天皇に比定される。
(9)『説文解字』に「寺は廷なり」とあることから、朝廷もしくは官衙の意。「寺」を侍(はべる)と解する説もある。
(10)大和の磯城(初瀬朝倉宮)と、河内の志紀(斯鬼宮)の二説が有力
(11)天下を治めることを助ける意
(12)幾度も練り鍛えあげたよく切れる刀
〔解 説〕
行田市埼玉にある埼玉古墳群の一つ、稲荷山古墳から昭和四十三年の発掘調査により出土した鉄剣に、金象嵌されていた一一五文字の銘文。昭和五十三年九月、元興寺文化財研究所のエックス線写真によって発見された。銘文の内容が我が国の古代国家形成に直接かかわるものであったため、その解釈をめぐり様々な論争が起こった。
文意は「辛亥の年の七月に、ヲワケの臣が記したものである。ヲワケの臣は、先祖のオオヒコから数えて八代目に当たり、代々杖刀人の首として大王に仕え今に至った。ワカタケル大王がシキの宮に在る時、自分は大王の天下統一事業を助けてこの百練の利刀を作らせ、自分が大王に仕えた根源を記しておく」というものである。
ヲワケの臣については、八代の系譜名や大和王権の東国征圧に関わる伝承から、大彦命の子孫で、中央で軍事に携わった阿部氏一族とする説と、鉄剣を出土した場所を重視して武蔵国の在地豪族とする説がある。在地豪族説とすれば、八代中の一人力サハヨ(ラ)を安閑紀に関わる笠原氏(埼玉郡笠原郷の豪族)とみて、武蔵国造族とする説もある。
ワカタケル大王についても、ヤマトの天皇説、関東大豪族説等とあるが、雄略天皇比定説の論拠はそれが「大王」を称し、「シキの宮」の宮号をもち、天下を治めることから後の天皇を称する人物とされ、さらにワカタケルの名を持つ天皇名から記紀の雄略天皇にあてられる。また日本書紀によると雄略の在位期間は四五六〜四七九年であり、一方、当時の中国の史書「宋書」に、雄略とされる倭王武が、昇明二年(四七八)に宋の順帝に上表文を出しており、記紀の雄路在位年代と矛盾しない。これらの諸点から「辛亥の年」は在位の四七一年とされる。
しかし、これについてはワカタケルを欽明天皇とみる説や、安閑紀の武蔵国造争乱伝承、稲荷山古墳の考古学的知見から五三一年等とする説もある。

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