北本市史 資料編 古代・中世

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第1章 古代の武蔵と北本周辺

永承六年(一〇五一)
陸奥の安倍氏が叛し、中央政府は源頼義を追討将軍として派遣する。この時、多くの坂東武士が頼義に従う。

40 陸奥話記(1) 〔群書類従〕
朝廷有議、択追討将軍、衆議所帰独在源朝臣頼義、頼義者、河内守頼信朝臣子也、性沈毅多武略、最為将師之器、長元之間、平忠常(2)為坂東姦雄、暴逆為事頼信朝臣為追討使討平忠常、並嫡子在軍旅間、勇決抜群才気被世、坂東武士多楽属者、(中略)俗好武男民多帰服、頼義朝臣威風大行、拒捍之類皆如奴僕、而愛士好施、会坂(3)以東弓馬之士大半為門客
〔読み下し〕
40 朝廷議ありて、追討将軍を択ぶ、衆議帰するところ独り源朝臣頼義にあり、頼義は河内守頼信朝臣が子なり、性沈毅にして武略多く、最も将師の器たり、長元の間平忠常、坂東の姦雄として、暴逆を事となす、頼信朝臣、追討使として平忠常を討つ、並に嫡子軍旅に在るの間、勇決群を抜き、才気世を被う、坂東武士属かむことを楽しむ者多し(中略)俗武勇を好み、民多く帰服せり、頼義朝臣が威風大いに行われ、拒捍の類は、皆奴僕の如し、しかれども士を愛し施すを好みしかば、会坂以東の弓馬の士、大半門客となれり
〔注〕
(1)むつわき 前九年の役の顋末を記した軍記物語、一巻、役平定後まもない時期の成立とされる。文章は和臭の強い漢文体、作者不詳
(2)史料36注2参照
(3)逢坂の関以東の地 逢坂は滋賀県大津市と京都府の境の地
〔解 説〕
淸和源氏が坂東諸国の武士の棟梁として名声を高めたのは、平忠常の乱を平定した源頼信以後である。以前には、嵯峨源氏の源仕・宛父子や、将門の乱に登場する清和源氏の源経基等が武蔵国で活躍しているが、平氏勢力(坂東八平氏)とは比較にならなかった。しかし、平将門の乱や、平忠常の乱という二大反乱を契機として平氏勢力はしだいに袞え、代わって忠常の乱の鎮圧を平定した頼信の武名は高まったが、彼は永承三年(一〇四八)に没した。子の頼義は忠常の乱鎮圧に従って武名を表わし、東国では源氏が武士の棟梁として武士団を傘下に収めるようになった。
永承六年(一〇五一)、安倍頼時が陸奥で反乱した時、中央政府は安倍氏追討の適任者は頼義であるとし、追討将軍に任じた。頼義は、同年に陸奥守、天喜元年(一〇五三)に鎮守府将軍を兼任し、康平五年(一〇六二)安倍貞任を誅し、宗任を降伏させ、ついに安倍氏の追討に成功した。史料は、『陸奥話記』の冒頭に近い一節で、頼義のすぐれた武人ぶりや、坂東武士団との関係を記述している。

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