北本市史 資料編 古代・中世

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第1章 古代の武蔵と北本周辺

保元元年(一一五六)七月十日
保元の乱に、源義朝が、足立氏ら武蔵の武士団多数を従え、白河殿を襲撃する。

46 保元物語(1) 〔日本古典文学大系〕
(保元元年七月十日)
其後義朝甲の緒をしめ、既うちいでけるが、義朝馬をひかへて、紅の扇を開つかひゐて申されけるは、義朝いやしくも武備の家に生れて、此事にあふはみ(身)の幸也日来(ひごろ)私(わたくし)軍(いくさ)の合戦の時(とき)は、朝威(てうい)に恐(おそ)れて思様(おもふさま)にもふるまはず、今度(こんど)におゐては宣旨(せんじ)を承(うけたまは)る上は、憚(はばかる)所(ところ)もなし、芸(げい)を此時(このとき)にほどこし、名(な)を後代(こうだい)にあぐべし、とて、白旄(はくぼう)の旗(はた)をなびかし、黄鉞(おうえつ)の鉾(ほこ)をかゝやかし、魚麟(ぎょりん)・鶴翼(くはくよく)の陣(じん)を全(まつたう)し、星旄電戟(せいぼうでんげき)の威(い)をふるっていさみ進(すすみ)てうち出(いで)し、刑勢(ぎやうせい)ことがら、あッばれ大将軍(だいしやうぐん)也とぞみえし
相(あひ)随(したが)ふ輩(ともがら)は誰々(たれたれ)ぞ、鎌田次郎政清(かまだのじらうまさきよ)・河内源太朝清(かはちのげんだともきよ)、近江国(あふみのくに)には、佐々木源三(ささきのげんざう)(秀義)・矢嶋冠者(やじまのくはんじゃ)(重実)、美濃国(みののくに)には、吉野太郎(よしののたらう)・平野平太(たひらのへいだ)、尾張国(おはりのくに)には、熱田大宮司(あつたのだいぐうじ)、舅(しうと)なりければ、我身(わがみ)はのぼらず、家(いゑ)の子(こ)郞等(らうどう)差遣(さしつかはす)、三河国(みかはのくに)には、設楽兵藤武者(したらひやうどうむしゃ)、遠江国(とをとうみのくに)には、横地(よこぢ)・勝田(かつた)・井八郎(いのはちらう)、駿河国(するがのくに)には、入江右馬允(いりえのうまのぜう)・藁科(わらしな)十郎・奥津(おきつの)四郎・蒲原(かんばら)五郎、伊豆国(いづのくに)には、藤(とう)四郎・同(おなじく)五郎、相模国(さがみのくに)には、大庭平太(おばのへいだ)(景義)、同(おなじく)三郎(景親)・山内刑部丞(やまのうちぎやうぶのぜう)(俊通)・子息滝口(しそくたきぐち)(俊綱)・海老名源八(えびなのげんぱち)(季貞)・波多野小二郎(はだののこじらう)(義通)・安房国(あはのくに)には、安西(あんざい)・金鞠(かなまり)・沼平太(ぬまのへいだ)・丸太郎(まるたろう)、上総国(かづさのくに)には、介(すけ)八郎(広経)、下総国(しもふさのくに)には、千葉介常胤(ちばのすけつねたね)、武蔵国(むさしのくに)には、豊島四郎(としまのしらう)・中條新(ちうでうしん)五・新(しん)六・成田太郎(なりだのたらう)・筈田次郎(はずたのじらう)・河内太郎(かはちのたらう)・別府二郎(べつぷのじらう)・奈良(ならの)三郎・玉井(たまのゐの)四郎・長井斉藤別当(ながいのさいとうべつとう)(実盛)・同(おなじく)三郎・丹治成清(たんぢなりきよ)・榛沢丹(はんざはのたん)六、児玉(こだま)には、庄(しやう)太郎(家長)・同(おなじく)三郎・秩父武者(ちちぶむしゃ)・粟飯原(あいばら)太郎、猪俣(いのまた)には、岡部(おかべの)六弥太(やた)(忠澄)・金平(こんぺい)六(範綱)・河句(かくの)三郎・手薄加(てばか)七郎、村山(むらやま)には、金子(かねこの)十郎(家忠)・山口(やまぐち)六郎・仙波(せんばの)七郎、西(にし)には、日次悪次(へつぎあくじ)・平山(ひらやま)、高家(かうけ)には、河越(かはごえ)・諸岡(もろおか)、上野国(かうずけのくに)に、瀬下(せじもの)四郎・物射(ものいの)五郎・岡下介(おかもとのすけ)・那波太郎(なはのたらう)、下野国(しもつけのくに)には、八田(はつたの)四郎、常陸国(ひたちのくに)には、中郡(ちうぐん)三郎・関次郎(せきのじらう)、甲斐国(かひのくに)には、志保見(しほみの)五郎・同(おなじく)六郎、信濃国(しなののくに)には、舞田(まひた)・近藤武者(こんどうむしゃ)・桑原(くはばら)・安藤二(あんとうじ)・安藤三(あんとうざう)・木曽仲太(きそのちうた)・弥中太(やちうた)・根井大弥太(ねんゐのだいやた)・根津神平(ねつのしんぺい)・熊坂(くまさか)四郎・志津間小二郎(しづまのこじらう)、これらを初(はじめ)として、宗(むね)との兵(つはもの)四百余騎(よき)、都合(つがう)一千余騎(よき)にて馳向(はせむか)ふ
〔読み下し〕
46 略
〔注〕
(1)軍記物語 三巻、著者不詳、成立は承久年間(一二一九~一二二一)頃、源為朝を中心に保元の乱の様子を和漢混淆文によって描いており、源平両軍に従った武士の様子がよくわかる。
〔解 説〕
保元の乱は、鳥羽法皇に対する崇徳上皇の皇位継承に関する不満に、摂関家における藤原忠通・頼長の反目が結びついて、武力衝突に発展した。即ち、後白河天皇を支持する鳥羽法皇が崩御すると、摂関家では関白忠通と弟左大臣頼長が関白職をめぐって対立していたため、後白河天皇と忠通、崇徳上皇と頼長が同盟して、これに新興勢力の武士が加わり大争乱になった。
崇徳上皇側の頼長は源為義・平忠正を招き、後白河天皇側の忠通は源義朝・平清盛と結んで戦った。つまり、肉親が両派に分かれて戦ったのである。この時、源義朝に従って、豊島・中条・成田・筈田・河内・別府・奈良・玉井・長井・斎藤・丹治・庄・秩父・粟飯原・猪俣・岡部・河勾・手薄加・金子・山口・仙波・日次・平山・河越・師岡など数多くの坂東武者が戦った。戦いは天皇側の勝利となり上皇は諧岐に配流、頼長は戦死、為義・忠正らは斬首された。この争乱には、武士の実力が大きな比重を占めた反面、伝統的貴族層の無力化を露呈し、この後の武家政権成立の契機となった。

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