北本市史 資料編 古代・中世

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第1章 古代の武蔵と北本周辺

平治元年(一一五九)十二月
この月、平治の乱において足立右馬允遠元らの武蔵武士が、悪源太義平に従い戦う。

47 平治物語(1) 〔日本古典文学大系〕
明(あく)れば(十二月)十日、大政大臣(だいじやうだいじん)・左右(さうの)大臣・内(ない)大臣以下(いげ)公卿殿(くぎやうでん)上人(じょうびと)参内(さんだい)して僉議(せんぎ)あり(中略)
軈(やがて) 而除目(ぢもく)(2)行(おこなはれ)て、信頼(のぶより)は本(もと)より望(のぞみ)懸(かけ)たる事なれば、大臣(じん)の大将(しやう)を兼(かね)たりき、左馬頭義朝(さまのかみよしとも)は播磨国(はりまのくに)を給(たまはり) て播磨左馬頭(はりまさまのかみ)とぞ申ける、兵庫頭頼政(ひやうごのかみよりまさ)は伊豆国(いづのくに)を給(たまはり)、出雲守光泰(いづものかみみつやす)は隠岐国(おきのくに)、伊賀守光基(いがのかみみつもと)は伊勢国(いせのくに)、周防判官末真(すはうのはんぐはんすゑざね)は河内国(かはちのくに)、足立四郎遠元(あだちしらうとをもと)(3)は右馬允(うまのぜう)(4)になさる、鎌田次郎(かまたのじらう)は兵衛尉(ひやうゑのぜう)に成(なり)て政家(まさいゑ)と改名(かいめい)す、今度(こんど)の合戦(かつせん)に打勝(うちかた)ば上総(かづさ)の国(くに)を給る(たまは)べき由(よし)の給けり(中略)
悪源太義平(あくげんだよしひら)、賀茂(かも)へ詣(もうで)けるが、此由(このよし)を聞(きき)、馳帰(はせかへり)、義朝(よしとも)に申(もうし)ける、行幸(ぎやうかう)は六波羅(ろくはら)へ、御幸(ごかう)は仁和寺(にんわじ)へと承候は、何(なに)とか聞召(きこしめし)候、と申されければ、義朝(よしとも)もかやうに聞(きき)つれとも、信頼(のぶより)もいまだかくとも知(しら)せず、さればとて源氏(げんじ)のならひに心替(こころかはり)あるべからず、こもる勢(せい)を記(しる)せや、とて、内裏(だいり)の勢(せい)をぞ記(しる)しける、大将軍(だいしやうぐん)には、悪右衛門督信頼(あくうゑもんのかみのぶより)、子息新侍従信親(しそくしんじじうのぶちか)(中略)
左馬頭義朝嫡子(さまのかみよしとものちやくし)鎌倉悪源太義平(かまくらのあくげんだよしひら)・二男中宮大夫進朝長(じなんちうぐうたゆふしんともなが)・右兵衛佐頼朝(うひやうゑのすけよりとも)・義朝(よしとも)の伯父(をじ)陸奥六郎義高(むつのくのろくらうよしたか)・義朝(よしとも)の弟(おとうと)新宮(しんぐうの)(三男脱)十郎義盛(よしもり)・従子(いとこ)佐渡式部大夫重成(さどのしきぶのたゆふしげなり)・平賀(ひらがの)四郎義宣(よしのぶ)、郎等(ろうどう)には、鎌田兵衛政清(かまだびやうゑまさきよ)・後藤兵衛真基(ごとうびやうゑさねもと)、近江国(あふみのくに)には佐々木源三秀能(ささきのげんざうひでよし)、尾張国(おはりのくに)には熱田(あつたの)大宮司太郎(ぐじたらう)は義朝(よしとも)にはこじうと(小舅)なり、我身(わがみ)はとヾまり、 子共家子郎等(こどもいゑのこらうどう)さしつかはす、三河国(みかはのくに)には重原兵衛父子(しげはらひやうゑふし)二騎(き)、相模国(さがみのくに)には波多野(はたの)二郎義通(よしみち)・三浦荒次郎義澄(みうらのあらじらうよしずみ)・山内首藤刑部俊通(やまのうちすどうぎやうぶとしみち)・子息(しそく)首藤滝口俊綱(すどうたきぐちともつな)・武蔵国(むさしのくに)には長井斉藤別当真盛(ながいのさいとうべつたうさねもり)・岡部六弥太忠澄(おかべのろくやたただすみ)・猪俣金平六範綱(ゐのまたのこんいろくのりつな)・熊谷次郎直実(くまがへのじらうなおざね)・平山武者季重(ひらやまむしやすえしげ)・金子(かねこの)十郎家忠(いゑただ)・足立右馬允遠元(あだちうまのぜうとをもと)・上総(かずさの)介八郎弘経(ひろつね)、常陸国(ひたちのくに)には関次郎時員(せきのじらうときかず)、上野国(かうずけのくに)には大胡(おほこ)・大室(むろ)・大類太郎、信濃国(しなののくに)には片切小(かたぎりこ)八郎太夫景重(たゆふかげしげ)・木曽中太(きそのちうた)・弥中太(やちうた)・常葉井(ときはい)・搏(くれ)・強戸(がうとの)二郎、甲斐国(かひのくに)には井沢(いざはの)四郎信景(のぶかげ)を始(はじめ)として宗(むね)との兵(つはもの)二百人、以下(いげ)軍兵(ぐんびやう)二千余騎(よき)とぞ記されける(中略)
左衛門佐重盛(さゑもんのすけしげもり)五百余騎(よき)を大宮面(おおみやおもて)にとゞめ、五百余騎(よき)をあひぐしてをしよせのたまひけるは、此門(このもん)の大将軍(だいしやうぐん)は信頼卿(のぶよりのきやう)とみるはひがこと(僻事)か、かく申(まうす)は、桓武天皇(くはんむてんのう)の苗裔(べうゑい)、大宰大弐清盛(だざいのだいにきよもり)の嫡子(ちゃくし)、左衛門佐重盛(さえもんのすけしげもり)、生年(しやうねん)二十三、といひかけられければ、信頼(のぶより)一防(ひとふせぎ)もふせか(が)ず、そこふせぎ候へ、とて引(ひき)しりぞきたまへば、大将軍(だいしやうぐん)引間(ひくあいだ)、ふせぐ侍(さぶらい)一人もなし、ざゝめひて引(ひき)ければ、重盛(しげもり)ちから(力)をえて、大庭(おおにわ)の掠(むくのき)の下(もと)までせめよせたり、義朝(よしとも)み給ひ、悪源太(あくげんだ)は候はぬか、源太冠者(げんだくはじや)はなきか、信頼(のぶより)といふ不覚仁(ふかくじん)(5)が、あの門(もん)やぶられつるぞや、あれ追出(おいいだ)せ、との給ひければ、承(うけたまはり)候、とて向(むか)はれけり、つヾく兵(つはもの)には、鎌田兵衛(かまだびやうゑ)・後藤兵衛(ごとうひゃうへ)・須藤刑部(すどうぎやうぶ)・長井斉藤別当(ながいのさいとうべつたう)・岡部(おかべの)六弥太(やた)・猪俣金平六(いのまたのこんべいろく)・熊谷次郎(くまがへのじらう)・平山武者所(ひらやまのむしやどころ)・金子(かねこの)十郎・足立右馬允(あだちうまのぜう)・上総介(かづさのすけ)八郎・片切(かたぎり)小八郎太夫等(だゆふら)十七騎(き)くつばみをならべ、門(もん)のロ(くち)へおさめきたり
(中略)
金子(かねこの)十郎家忠(いゑただ)は、保元(ほげん)の合戦(かつせん)に、為朝(ためとも)の陣(じん)にかけ入(いり)、高馬(たかまの)三郎兄弟(きやうだい)を射(い)て、為朝(ためとも)の矢(や)さき(先)のがれて名(な)をあげけるが、平治(へいじ)にもさき(先)をか(駆)けて戦(たたかひ)ける、矢(や)だねも射(い)つくし、弓(ゆみ)も引(ひき)おれてすてぬ、太刀(たち)もうちおり、おれ太刀(たち)ばかりひつさげ、あはれ御方(みかた)がな、太刀をこ(乞)はばやとおもふところに、同国(どうこく)の住人(おうにん)足立(あだち)の右馬允遠元(うまのぜうとをもと))いで来(きた)る、御覧(ごらん)候へ、足立殿(あだちどの)、太刀(たち)をうちおりて候、かはりの太刀(たち)候はばたび(賜)候へ、と云(いふ)、かへの太刀(たち)はなけれ共(ども)、御辺(ごへん)のこうところがやさしければ、とて、さき(先)をうたせける郎等(らうどう)の太刀(たち)を取(とり)、金子(かねこ)にとらす、大(おほき)によろこび、敵(てき)あまたうつてンげり、足立(あだち)が郎等(らうどう)申けるは日来(ひごろ)の心(こころ)をみ給(たまひ)、物(もの)のようにたつまじき者(もの)よとおもひ給へばこそ、かかる軍(いくさ)の中(なか)にて太刀(たち)をばめされ候へ、御供(とも)してなにかせん、とて主(しう)を恨(うらみ)てうちわかる、足立(あだち)いひけるは、しばらくひかへよ、いふべき事あり、とて、はせいでぬ、敵(てき)一騎(き)出来(いできた)るに、我(われ)も名(な)のらず、人にも名(な)のらせず、よつ引(ぴい)てひやうど射(い)ければ、内甲(うちかぶと)にしたゝかにたつ、馬(むま)よりおちければ、落合(おちあひ)、敵(てき)が太刀(たち)を取(とっ)て引(ひき)かへし、郎等(らうどう)に馳(はせ)ならびていひけるは、汝(なんじ) 心(こころ)短(みじか)くこそ恨(うらみ)つれ、すは、太刀(たち)よ、 とて とらせ、 前(さき)をぞかけさせける
異国(いこく)にむかし徐君(じょくん)・季札(りさつ)(6)とて二仁将軍(じんしやうぐん)ありき、季札(りさつ)は三尺(じやく)の剣(けん)をもちたり、徐君(じょくん)常(つね)にこ(乞)ひけれ共(ども)おしみてとらせず、隣国(りんごく)に夷(ゑびす)おこるよし間(きこ)えければ、季札(りさつ)を責(せめ)につかはす、徐君(じょくん)がもとへうちよりて暇乞(いとまごい)しければ、徐君(じょくん)同(おなじ)やうなる太刀(たち)を取出(とりいだ)し、その太刀(たち)にかへてといへば、宣旨(せんじ)にしたがひ他国(たこく)仕(つかまつり)、ゑびすをせ(攻)めに向(むかふ)なり、かへらん時(とき)にとらすべしとてうちいでぬ、三箇年(さんがねん)にゑびすをほろぼして帰(かへり)し時(とき)、徐君(じよくん)もとへうちよりて、いづくへぞ、ととふ女(をんな)なくなく(泣く泣く)出(いで)むかひ、空(むな)しくなりて三年(みとせ)になりぬ、とこたへしに、墓(つか)はいづくぞ、ととひければ、あれこそ、とをしへけり、うちよりてみれば、塚(つか)に松(まつ)生(おい)たり、存生(ぞうじやう)の時(とき)こひし剣(けん)なれば、草(くさ)の陰(かげ)にても嬉(うれ)しくおもふべしとて、松(まつ)の枝(えだ)に剣(けん)をかけてぞとをりける、異国(いこく)に聞えし季札(りさつ)も敵(てき)をほろぼして後(のち)にそ徐君(じょくん)が塚(つか)に剣をかけてとをりし、吾朝(わがてう)の武蔵国(むさしのくに)の住人(おうにん)、足立右馬允遠元(あだちうまのぜうとをもと)は、かかる軍(いくさ)の中(なか)にして、太刀(たち)を金子(かねこ)にとらせけるこゝろのうちこそやさしけれ(中略)
さるほどに左馬頭義朝(さまのかみよしとも)は、片田(かただ)の浦(うら)(7)へ打(うち)いで、義高(よしたか)頸(くび)をとり給(たまひ)、故入道殿(8)にをくれ奉(たてまつ)りてのち、御方(みかた)(9)をこそたのみまいらせ候(さうらひ)つるに、かやうになり給ひぬれば、ちからをよばず候、とてかきくどき、念仏(ねんぶつ)申(まうし)とふ(ぶ)らひたてまつり、湖(みずうみ)へ馬をふとはら(太腹)までうちいれて、かうべ(首)を婦(ふ)かくしずめ奉(たてまつ)りてうちあがり、たよりの舟(ふね)をたづねて湖(みずうみ)をわたらむとしたまひけれども、おりふし浪風(なみかぜ)はげしくて、船(ふね)一艘(いつそう)もなかりければ、それより引返(ひつかえ)し、東(ひがし)坂本(さかもと)にうちかかり、勢多(せた)をさしておちられける、兵(つはもの)共(ども)に宣(のたまひ)けるは、この勢(せい)一所(いつしよ)にてはかなふまじ、いと(暇)まとらするぞ、東国(とうごく)にまいりあふべし、との給へばともかくもならせ給はんまでは御ともつかまつりてこそいかにもなり候はめと申(まう)せども、存(ぞん)ずるむねあり、と(疾)くと(疾)く、と宣(のたま)ひければ、ちからをよばずして、波多野二郎(はだののじろう)・三浦荒二郎(みうらのあらじらう)・長井斉藤別当(ながいのさいとうべつたう)・岡部六弥太(おかべのろくやた)・猪俣金平六(いのまたのこべいろく)・熊谷(くまがへの)二郎・平山武者所(ひらやまむしやどころ)・足立右馬允(あだちうまのぜう)・金子(かねこの)十郎・上総介(かずさのすけ)八郎をはじめとして、二十余人(よにん)いとま給(たまは)り、おもひおもひに下(くだり)けり、一所(いつしよ)におちられける人々には、左馬頭義朝(さまのかみよしとも)・嫡子(ちゃくし)鎌倉悪源太義平(かまくらのあくげんだよしひら)・二男(じなん)中宮大夫進朝長(ちうぐうだゆふしんともなが)・三男兵衛佐頼朝(ひゃうゑのすけよりとも)・佐渡式部大夫重成(さどのしきぶたゆふしげなり)・平賀四郎義宣(ひらかのしらうよしのぶ)・義朝(よしとも)の乳母子(めのとご)鎌田兵衛正清(かまだのひやうゑまさきよ)・金王丸(こんわうまる)をはじめとして、八騎(き)の勢(せい)にておちられけり
〔読み下し〕
47 略
〔注〕
(1)『平治記』ともいう。三巻、作者不詳の軍記物である。一説には『保元物語』と同一作者ではないかといわれ、鎌倉初期から中期にかけて成立したとみられる。平治の乱を明快な和漢混体で描いている。異本、流布本が多い。
(2)大臣以外の宜に任命する儀式
(3)足立郡出身の武士、足立氏は勧修寺流藤原氏の子孫、又は武蔵国造家の後裔ともいわれる。父遠兼の時足立郡を領した。館址として大宮市植田谷本・桶川市桶川が知られている。
(4)右馬寮の三等官
(5)ひきょう者の意
(6)中国春秋時代の人、呉王寿夢の子
(7)現在の滋賀県滋賀郡堅田町の地
(8)義朝の父、源為義
(9)義高(義朝の叔父義隆)のこと
〔解 説〕
保元の乱後、戦功のあった平清盛と源義朝との間に勢力争いが起こった。淸盛は、後白河上皇の乳母紀伊局の夫として権力をふるう上皇の寵臣藤原通憲(信西)と結び義朝を圧倒した。そこで義朝は、通憲の対立者である藤原信頼と紐み、清盛の熊野参詣中に挙兵して、上皇の御所三条殿を焼き打ちし、上皇を幽閉して通憲を殺害した。しかし、急いで帰京した清盛に敗れ、信頼は斬罪、義朝は尾張で殺された。この乱においても、長井・岡部・猪俣・熊谷・金子・足立などの坂東武者の活躍が見られる。なおこの乱の後、源氏は一時衰退し、清盛が支配権を掌握し、武士として初めて太政大臣に就任するなど、平家が全盛をきわめることとなった。
保元・平治の両乱を通じて義朝に従い参戦した足立遠元は、待賢門の戦いで義平(義朝の子)麾下十七騎の一として奮戦し、また六条河原の決戦では、入間郡の住人金子十郎家忠に郎等の太刀を与え、郎等には倒した敵の太刀を与える美談を残している。
義朝が近江へ敗走した時にも、遠元は義朝と行を共にした少勢の一人として名を止めている。義朝敗死後の武蔵の武士団は、畠山・河越・熊谷氏等は平家に従ったが、足立氏ら多くは故地に逼塞して再起を待っていた。このため、平家は武蔵全体を掌握することができず、やがて源頼朝が挙兵すると武蔵武士は治承・寿永の内乱を通じて頼朝に従い、鎌倉政権樹立に向けて奮戦を続けていった。

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