北本市史 資料編 古代・中世

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第1章 古代の武蔵と北本周辺

安閑元年(五三四)閏十二月
武蔵国の笠原直使主と同族小杵が武蔵国造職を争い、使主が勝利して、国造職就任にあたり横淳・橘花・多氷・倉櫟の四か所の屯倉を大和政権に献上する。

3 日本書紀 〔新訂増補国史大系〕
(安閑元年閏十二月)
是月、(中略)武蔵国造笠原(1)直使主与同族小杵、相争国造(使主、小杵皆名也)経年難決也、小杵性阻有逆、心高無順、密就求援於上毛野君(2)小熊、而謀殺使主、使主覚之走出、詣京言状、朝庭臨断、以使主為国造、而誅小杵、国造使主、悚憙交懐、不能黙已、謹為国家、奉置横渟渟(3)・橘花(4)・多氷(5)・倉樔(6)四処屯倉
〔読み下し〕
3 是の月(中路)武蔵国造笠原直(あたい)使主(おみ)と同族(うがら)小杵(おぎ)と、国造を相争いて(使主、小杵皆名なり)年を経るに決(さだ)め難し、小杵、性(ひととなり) 阻(うじはや)くして 逆(さから)うこと有り、心高びて 順(まつろ)うこと無し、密(ひそか)に就(ゆ)きて援(たすけ)を上毛野君小熊に求む、而して使主を殺さむと謀(はか)る、使主覚(さと)りて走(に)げ出ず、京に詣(もう)でて状(そのかたち) を言(もう)す、朝廷(みかど)臨断みさだ)めたまいて、使主をもって国造とす、而して小杵を殺す、国造使主、悚(かしこまり)稀憙(よろこび)懐(こころ)に交(み)ちて、黙已(もだ)あること能(あた)わず、謹(つつし)みて国家(みかど)の為に、横渟(よこぬ)・橘花(たちばな)・多氷(おおひ)・倉樔(くらす)四処(よところ)の屯倉(みやけ)を置き奉る
〔注〕
(1)笠原は、『倭名類聚抄』に見える埼玉郡笠原郷にゆかりのある氏の名、直(あたい)は伴造国造に多い姓(かばね)
(2)上野国の大豪族、「君」の姓をもつ。上野南部の太田市、高崎市、藤岡市などには五世紀の巨大な前方後円墳が分布しているので、それに関わる豪族であろう。
(3)よこぬのみやけ 横見郡の地(現吉見町周辺)に置かれた大和王権の直轄地、吉見百穴もある早く開けた地
(4)橘花(たちばな)は橘樹郡の地(現川崎市高津区から多摩区にかけての地)
(5)多氷(おほひ)は多末(たま)とみて多摩郡の地
(6)倉樔(くらす)は久良岐郡(横浜市)の地
〔解 説〕
武蔵国で、国造職の地位をめぐり在地豪族笠原直使主と同族の小杵が長年相争い、決着がつかないという事件が起こった。気性激しく抵抗意識の強い小杵は、大和政権に対し対立意識の強い隣国の上毛野君小熊に応援を求め、使主を滅ぼそうとした。これを知った使主は、西上して大和政権に訴えた。大和政権は小杵の非を断じて使主を国造に任じ、小杵を誅伐した。朝恩に感謝した使主は、横渟・橘花・多氷・倉樔の四か所を屯倉として大和政権に献上したという話である。この伝承は、武蔵国や市域隣接地に関る古代前期関係史料としては数少ないきわめて注目すべき文献史料であるが、日本書紀の成立論や考古学上からの批判はある。
この内紛は、五世紀後半に見られた南北武蔵の豪族間の勢力争いを背景に、小杵を援助し武蔵国における政治的影響カを確保しようとする上毛野氏と、使主を武蔵国造に任命することによって上毛野氏の動きを牽制し、東国支配権の確立をめざした大和の大王勢力との政治的対立ととらえることができる。また武蔵の前方後円墳は、四〜五世紀に南武蔵の多摩川流域に宝来山古墳・観音松古墳に代表される巨大古墳が成立したが、五〜六世紀には比企の将軍塚古墳や埼玉古墳群の成立に見られるように北武蔵に大きく発展したとする見解もこれを裏づける。
笠原氏については、埼玉郡笠原郷につながる氏の名であることから、そこを本拠とする豪族と考えられ、笠原郷に近接する埼玉古墳群の動向は、笠原一族の内紛と深い関りがあるとされる。この内紛を契機に武蔵国は大和政権の完全な支配下に属し、屯倉の所在地をかつての国造の支配地とすれば、五世紀後半頃より大和政権の影響による武蔵国への統合が進んでいたと考えられる。

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