北本市史 資料編 古代・中世

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第1章 古代の武蔵と北本周辺

大化元年(六四五)八月五日
朝廷は東国の国司八人を任命して、田畝を校し戸籍をつくらせる。

5 日本書紀 〔新訂増補国史大系〕
八月丙申朔庚子(1)、拝東国等国司、仍詔国司等日、随天神之所奉寄、方今始将修万国、凡国家所有公民、大小所領人衆、汝等之任、皆作戸籍及校田畝(2)、其薗池水陸之利、与百姓(3)俱、又国司等、在国不得判罪、不得取他貨賂、令致民於貧苦、上京之時、不得多従百姓於己、唯得使従国造、郡領(4)、但以公事往来之時、得騎部内之馬、得飡部内之飯、介以上、奉法必須褒賞、違法当降爵位、判官以下、取他貨略、二倍徴之、遂以軽重科罪、其長官従者九人、次官従者七人、主典従者五人、若違限外将者、主与所従之人、並当科罪、若有求名之人、元非国造・伴造・県稲置(5)、而輙詐訴言、自我祖時、領此官家、治是郡県、汝等国司、不得随詐便牒於朝、審得実状而後可申、又於閑曠之所、起造兵庫、収聚国郡刀甲弓矢(6)、辺国近与蝦夷接境処者、可尽数集其兵、而猶仮授本主、其於倭国六県(7)被遣使者、宜造戸籍、并校田畝、(謂検覈墾田頃畝及民戸口年紀)汝等国司、可明聴退、即賜帛布、各有差
〔読み下し〕
5 八月の丙申の朔庚子に、東国等の国司を拝(め)す、仍りて国司等に詔して日(のたま)わく、天神(あめつかみ)の奉(う)け寄(よさ)せたまいし随(まま)に、方(まさ)に今始めて万国(くにぐに)を修めんとす、凡そ国家の所有(たもて)る公民、大きに小(いささけ)きに領(あずか)れる人衆(ひとども)を、汝等任(まけどころ)に之(まか)りて、皆戸籍(へのふみた)を作り、及(また)田畝(たばたけ)を校(かんが)えよ、其れ薗池水陸の利は、百姓と俱(とも)にせよ、又、国司等、国に在りて罪を判(ことわ)ること得じ、他の貨賂を取りて、民を貧苦に致すこと得じ、京(みやこ)に上らむ時には、多に百姓を己に従うること得じ、唯(ただ)国造・郡領をのみ従わしむること得ん、但し、公事を以(もっ)て往来(かよ)わん時には、部内の馬に騎ること得、部内の飯飡うこと得、介より以上、法を奉けたらば、必須(すべから)くは褒(ほ)め賞せよ、法に違わば、当(まさ)に爵位を降さん、判官より以下、他の貨賂を取らば、二倍して徴らん、遂に軽さ重さを以て罪科せん、其の長官に従者は九人、次官に従者は七人、主典に従者は五人、若し限に違いて外に将たらん者は、主と従ならん人と、並に当に罪科せん、若し名を求むる人有りて、元より国造・伴造・県稲置に非ずして、輙(たやす)く詐(いつわ)り訴えて言(もの)さまく、我が祖(おや)の時より、此の官家(みやけ)を領(あずか)り、是の郡県(こおり)を治(おさ)むと、汝等国司、詐の随(まま)に便く朝に牒すこと得じ、審(つまびらか)に実(まこと)の状(かたち)を得て後に申すべし、又、閑曠なる所に、兵庫を起造りて、国郡の刀(たち)・甲(よろい)・弓(ゆみ)・矢(や)を収(おさ)め聚(あつ)め、辺国の近く蝦夷(えみし)と境(さかい)接(まじわ)る処には、尽(ことごとく)に其の兵を数え集めて、猶本主に仮(あず)け授(たも)うべし、其れ倭国(やまとのくに)の六県(むつあがた)に逍わさるる使者、戸籍を造り、并(あわせ)て田畝(たばたけ)を校(がんか)うべし墾田(ほりた)の頃畝及び民の戸口の年紀を検竅(あなぐ)るを謂(い)う、汝等国司、明に聴りて退るべし、即ち帛布賜うこと、各差(しな)有り
〔注〕
(1)かのえね 干支で五日に当たる。
(2)田畠を調査すること
(3)農民、人民のこと
(4)この時に郡領の存在は疑わしい。郡は評(こおり)と呼ばれていた。
(5)あがたいなぎ 県主の姓も稲置と称したが、県主・稲置の主脱か不明 県は改新以前の地方組織、県主はその長、稲置は大王政府が設置した地方官職
(6)武器をさす
(7)大和にあった高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布の六つの県、大王家の直轄地
〔解 説〕
中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(藤原氏の祖)が中心となって、従来の氏姓制度に基づく蘇我氏ら有力豪族の支配を打破して、天皇中心の中央集権的国家体制を樹立しょうとした、大化元年(六四五)の政治的・経済的変革を大化改新という。この改新の断行に当たって政府は、改新の基本方針を大化二年正月に公布した「改新之詔」に示した。その内容は皇族・諸豪族の私地(屯倉・田荘)、私民(子代・名代の民、部曲)を廃して公地公民とすること、京師・国・郡・里などの地方行政組織の確立、戸籍・計帳の作成と班田収検法の実施、租・庸・調その他統一的課税制度の施行の四項目であった。そしてその其体的施策として出されたのが、本条の東国に対する国司派遣の詔である。
東国にまず国司を派遣したのは、東国が改新政府にとって最も重要な経済的、軍事的基盤であったためとされている。この詔に見られる国司の権限と任務は、令制の国司に比べ任期が半年(大化元年八月から大化二年二月)であり、支配の範囲がかなり広く (東方八道)、在地の国造と地方政治の改革を進めていることなど、後の令制規定の国司とは質を異にするが、後の全国にわたる中央集権的地方行政制度の原型となったことはいえよう。ただ、当時の東国の範囲については諸説があり、尾張・美濃・越前以東をさすとする説もあるが、いずれにせよ武蔵はこのなかに含まれていた。

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