北本市史 資料編 古代・中世

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第1章 古代の武蔵と北本周辺

大宝三年(七〇三)七月五日
従五位下引田朝臣祖父が武蔵守となる。

6 続日本紀(1) 〔新訂増補国史大系〕
秋七月甲午(2)(中略)従五位下引田朝臣(3)祖父(4)為武蔵守
〔読み下し〕
6 秋七月甲午(中略)従五位下引田朝臣祖父を武蔵守となす
〔注〕
(1)しょくにほんぎ 『日本書紀』のあとをうけて文武元年(六九七)から延暦十年(七九一)までを記述した四〇巻の勅撰史書。菅野真道・藤原継縄らの撰で、延暦十六年(七九七)に完成奏上された。奈良時代の根本史料
(2)きのえうま 干支で五日に当たる。
(3)あそみ 天武十三年(六八五)に制定された八色の姓(やくさのかばね)の一つである。八色の姓は真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置の八種で、豪族に新たに姓を与え、天皇への服属関係を明確にし、氏族の再編成、統制强化を図るために制定された。
(4)ひきたのあそみおおじ 中央豪族阿部氏の族の引田氏の出。書紀の記述によると、阿部氏は古くから東国に勢力を伸ばしていた。
〔解 説〕
史料は、文献上確認できる武蔵守補任の初見史料である。
古代国家の基本法典である律令の本格的な完成は、大宝元年(七〇一)に制定された大宝律令で、翌二年から施行された。これによって我が国の基本法令が定まり、地方制度もそれに拠っていた。史料は大宝令施行の翌三年の補任記事であり、大宝令に基づくものであることは明らかである。従って、この記事をもって、武蔵守の初任とはなしがたい。加えて、続日本紀の前半部分は、後半に比べて叙位や補任記事が少なく、省略されていることも考えられるのである。ところで、この記事によれば、関東では武蔵と下総の国司のみが補任され、次は五年後の和銅元年(七〇八)に武蔵国司の当麻桜井、下総国司の賀茂吉備麻呂(一五日後の三月二十二日に佐伯百足となる)等、上総・常陸・上野・下野六か国の国司補任記事が見られ、東国の律令支配が次第に整えられる様子が窺える。
なお現存している律令は、大宝律令の後に制定された養老令(養老五〜六年制定)の条文である。

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