北本市史 資料編 古代・中世
第1章 古代の武蔵と北本周辺
天平勝宝七年(七五五)二月二十日武蔵国部領防人司正六位上安曇宿禰が、武蔵の防人歌二〇首を献進する。
9 万葉集 〔日本古典文学大系〕
麻久良多之(1) 己志尒等里波伎 麻可奈之伎 西呂(2)我馬伎己無 都久乃之良奈久 | (四四一三) |
右一首、上丁那珂郡(3)檜前舎人石前之妻大伴部真足女 | |
於保伎美乃 美己等可之古美 宇都久之気 麻古(4)我弖波奈利 之末豆多比由久 | (四四一四) |
右一首、助丁秩父郡大伴部少歳 | |
志良多麻乎 弖尒刀里母之弖 美流乃須母 伊弊奈流伊母乎 麻多美弖毛母也 | (四四一五) |
右一首、主帳荏原郡物部歳徳 | |
久佐麻久良 多比由苦世奈我 麻流禰世婆 伊波奈流和礼波 比毛等加受禰牟 | (四四一六) |
右一首、妻掠椅部刀自売 | |
阿加胡麻乎 夜麻努尒波賀志 刀里加尒弖 多麻能余許夜麻 加志由加也良牟 | (四四一七) |
右一首、豊島郡上丁掠椅部荒虫之妻宇遅部黒女 | |
和我可度乃 可多夜麻都婆伎 麻己等奈礼 和我弖布礼奈々 都知尒於知母加毛 | (四四一八) |
右一首、荏原郡上丁物部広足 | |
伊波呂尒波 安之布多気騰母 須美与気乎 都久之尒伊多里氐 古布志気毛波母 | (四四一九) |
右一首、橘樹郡上丁物部真根 | |
久佐麻久良 多妣乃麻流禰乃 比毛多要婆 安我弖等都気呂 許礼乃波流母志 | (四四二〇) |
右一首、妻掠椅部弟女 | |
和我由伎乃、伊伎都久之可婆 安之我良乃 美禰波保久毛乎 美等登志努波禰 | (四四二一) |
右一首、都筑郡上丁服部於田 | |
和我世奈乎 都久之倍夜里弖 宇都久之美 於妣波等可奈々 阿也尒加母禰毛 | (四四ニニ) |
右一首 妻服部呰女 | |
安之我良乃 美佐可(5)尒多志弖 蘇壅布良婆 伊波奈流伊毛(6)波 佐夜尒(7)美毛可母 | (四四二三) |
右一首、埼玉郡上丁藤原部等母麿 | |
伊呂夫可久 世奈我許呂母波 曽米麻之乎 美佐可多婆良婆 麻佐夜可美無 | (四四二四) |
右一首、妻物部刀自売 |
〔読み下し〕
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枕刀(まくらたし)腰に取(と)り佩(は)きま愛(かな)しき背ろが罷(め)き来(こ)む月(つく)の知らなく | (四四一三) |
右の一首は、上丁(じょうちょう)那珂(なか)の郡(こおり)の檜前舎人(ひのくまのとねり)石前(いはさき)が妻(め)の大伴部真足女(おおともべのまたりめ) | |
大君(おおきみ)の命(みこと)畏(かしこ)み愛(うつく)しけ真子(まこ)が手離(てはな)り島(しま)伝つた)ひ行く | (四四一四) |
右の一首は、助丁(じょちょう)秩父(ちちぶ)の郡(こおり)の大伴部少歳(おおともべのをとし) | |
白玉を手に取(と)り持(も)して見るのすも家(いへ)なる妹(いも)をまた見てももや | (四四一五) |
右の一首は、主帳(しゅちょう)荏原(えばら)の郡(こおり)の物部歳徳(もののべのちしとこ) | |
草枕(くさまくら)旅行く背なが丸寝(まるね)せば家(いわ)なる我れは紐解(ひもと)かず寝(ね)む | (四四一六) |
右の一首は、妻(め)の掠椅部刀自売(くらはしべぼとじめ) | |
赤駒(あかごま)を山野(やまの)にはかし捕(と)りかにて多摩(たま)の横山(よこやま)徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ | (四四一七) |
右の一首は、豊島の郡の上丁掠椅部荒虫(くらはしべのあらむし)が妻(め)の宇遅部黒如(うじべのくろめ) | |
我が門(かど)の片山椿(かたやまつばき)まこと汝(な)れ我が手触(ふ)れなな地(つち)に落(お)ちもかも | (四四一八) |
右の一首は、荏原(えばら)の郡の上丁物部広足(ものべのひろたり) | |
家(いわ)ろには葦火(あしふ)焚(た)けども住(す)みよけを筑紫(つくし)に至(いた)りて恋(こう)しけ思(も)はも | (四四一九) |
右の一首は、橘樹(たちばな)の郡の上丁物部真根(もののべのまね) | |
草枕旅の丸寝(まるね)の紐絶えば我(あ)が手と付けろこれの針(はる)持(も)し | (四四二〇) |
右の一首は、妻(め)の掠椅部弟女(くらはしべのおとめ) | |
我が行(ゆ)きの息(いき)づくしかば足柄(あしがら)の峰(みね)延(は)ほ雲を見とと偲はね | (四四二一) |
右の一首は、都筑(つづき)の郡の上丁服部於田(はとりべぼうえだ) | |
我が背(せ)なを筑紫(つくし)へ遣(や)りて愛(うつく)しみ帯(おび)は解(と)かななあやにかも寝(ね)も | (四四二二) |
右の一首は、妻(め)の服部呰呰女(はとりべのあさめ) | |
足柄(あしがら)の御坂(みさか)に立(た)して袖(そで)振らば家(いわ)なる妹(いも)はさやに見もかも | (四四二三) |
右の一首は、埼玉(さきたま)の郡の上丁藤原部等母磨(ふじわらべのともまろ) | |
色(いろ)深(ふか)く背(せ)なが衣(ころも)は染(そ)めましをみ坂(さか)給(たば)らばまさやかに見む | (四四二四) |
右の一首は、妻(め)の物部刀自売(もののべのとじめ) |
〔注〕
(1) | 枕辺に置く太刀 |
(2) | 夫の意 |
(3) | 江戸期の鉢形・八幡山二領に属する一〇か村から構成された郡 |
(4) | 妻の意 |
(5) | 足柄坂、近世の箱根の関周辺 |
(6) | 妹、妻の意 |
(7) | はっきりと |
(8) | 防人として徵発された兵士たちを統率して国々から難波津まで送る役人。国司のなかから任命された。 |
史料は、武蔵国の部領防人使掾安曇宿禰三国が進上した武蔵防人関係の歌である。二〇首献進したうち、拙劣歌などを除いて十二首が万葉集に収載されており、防人研究の基礎史料となっている。
当時の正丁はその約三分の一が兵士に差発され、居住地の郡に設けられた軍団で毎年一か月あまりの訓練を受けた。東国の兵士の中には老父母や愛する妻子を残し、防人として北九州の大宰府へ赴き、三年間辺境の防備に従事しなければならない者がいた。実際には三年間勤務という軍防令の規定は守られず、筑紫に留まって二度と故郷に帰らない防人も少なくなかったという。当時の九州大宰府は、東国の民衆たちからすれば僻遠の地であり、これらの歌には、そのような遠隔の地へ旅立つ防人の妻子や防人らの家を思う気持ちや、また、愛する父や夫、重要な労働力である成年男子を徴発された家族の悲しい心情が歌われている。