北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

治承四年(一一八〇)六月二十四日
安達盛長は、源頼朝の命により、平氏打倒のための旧源氏御家人招請の使者となる。次いで頼朝の挙兵に従う。

48 吾妻鏡(1) 治承四年六月二十四日条 〔新訂增補国史大系・以下略〕
廿四日乙巳、入道源三品(2)敗北之後、可被追討国々源氏之条、康信(3)申状(4)不可被処浮言之間、遮欲廻平氏追討籌策、仍遣御書、被招累代御家人等、藤九郎盛長為御使、又被相副小中太光家(5)云々
 
49 吾妻鏡 治承四年八月十七日条
十七日丁酉、快晴、三島社(6)神事也、藤九郎盛長為奉幣御使社参、無程帰参、(神事以前也、)(中略)戌剋、藤九郎盛長僮僕於釜殿、生虜兼隆(7)雑色(8)男、但依仰也、此男日来嫁殿内下女之間、夜々参入、而今夜勇士等群集殿中之儀、不相似先々之形勢、定加推量歟之由、依有御思慮如此云々、然間、非可期明日、各早向山木、可決雌雄、以今度合戦、可量生涯之吉凶之由被仰、(中略)子剋、牛鍬東行、定綱兄弟(9)留于信遠(10)宅前田頭訖、定綱、高綱者、相具案内者、(北条殿(11)雑色、字源藤太、)廻信遠宅後、経高者進於前庭、先発矢、是源家征平氏最前ー箭也、于時明月及午、殆不異白昼、信遠郎従等見経高之競到射之、信遠亦取太刀、向坤方立逢之、経高棄弓取太刀、向艮相戦之間、両方武勇掲焉也、経高中矢、其刻定綱、高綱、自後面来加、討取信遠畢、(中略)盛綱、景廉任厳命、入彼館、獲兼隆首郎従等同不免誅戮、放火於室屋、悉以焼失、既暁天、帰参士卒等群居庭上、武衛(12)於縁覧兼隆主従之頸云々
〔読み下し〕
48廿四日乙巳、入道源三品敗北の後、国々の源氏を追討せらるべきの条、康信が申状、浮言に処せらるベからざるの間、さもあらば平氏追討の籌策を廻らさんと欲す、よりて御書を造わし、累代の御家人等を招からる、藤九郎盛長御使たり、また小中太光家を相副えらると云々
49十七日丁酉、快晴、三島社の神事なり、藤九郎盛長、奉幣の御使として社参し、ほどなく帰参す、神事以前なり(中略)戌(いぬ)の剋(こく)、藤九郎盛長が僮僕、釜殿において、兼隆が雑色(ぞうしき)の男を生虜(いけど)る、ただし仰せによってなり、この男、ひごろ殿内の下女に嫁するの間、夜な夜な参入す、しかして今夜勇士等殿中に群集するの儀、先々の形勢に相似ず、定めて推量を加えんかの由、御思慮あるによりかくの如しと云々、しかる間、明日を期すべきにあらず、おのおの早く山木に向い、雌雄を決すべし、今度(こたび)の合戦をもって、生涯の吉凶を量るべきの由、仰せらる、(中略)子剋(ねのこく)、牛鍬を東行し定綱兄弟は信遠が宅の前の田の頭に留りおわんぬ、定綱・高綱は、案内(あない)の者(北条殿が雑色、字は源藤太、)を相具し、信遠が宅の後に廻る、経高は、前庭に進み、まず矢を発す、これ源家が平氏を征する最前の一の箭なり、時に明月午に及ぶ、ほとんど白昼に異ならず、信遠が郎従等、経高の競い到るを見、これを射る、信遠また太刀を取り、坤(ひつじさる)の方に向いこれに立ち逢う、経高弓を棄て太刀を取り、艮(うしとら)に向い相戦うの間、両方の武勇を掲焉なり、経高矢に中(あた)る、その刻(みぎり)定綱・高綱、後面より来り加わり、信遠を討ち取りおわんぬ、(中略)盛綱・景廉(加藤)厳命に任せ、かの館に入り、兼隆が首を獲たり、郎従等同じく誅戮を免れず、火を室屋に放ち、ことごとくもって焼失す、すでに暁天、帰参の士卒等庭上に群居す、武衛(ぶえい)、縁において兼隆主従の頸を覧ると云々
〔注〕
(1)全五十二巻で、治承四年(一一八〇)から文永三年(一二六六)までの鎌倉幕府の出来事を書いた史書。日記の体裁をとって書かれているが、編纂時期は、前半の源氏三代(頼朝・頼家・実朝)が十三世紀半ば以後、後半が十四世紀初めころとされている。編者は、北条氏の指揮の下に、幕府の吏僚が当たったと考えられている。鎌倉時代の最重要史料であるが、北条氏中心主義で編纂されていることに注意を要する。
(2)源頼政 淸和源氏頼光流で摂津国(兵庫県)が本貫である。歌人として名高く、この功で従三位(三品)まで昇進し出家したため、こう称する。
(3)三善康信 母が源頼朝の乳母の妹。後に、鎌倉に下向し、幕府問注所の初代執事(長官)となる。幕府創業の功臣。なお、三善氏は明法(法律)・算道で朝廷に仕えた実務吏僚
(4)申文のこと 下位の者から上位の者に対して出す文書一般をいう。
(5)中原光家 出身は不明、源頼朝の伊豆国流人時代から側に仕え、後に幕府政所知家事となる。
(6)伊豆国一宮、三島市にある。
(7)山木兼隆 桓武平氏出身で、平氏の家人。当時、平氏の知行国であった伊豆国の目代(知行国主・国司の代理として任国に下り、国の吏務を執行)
(8)院・御所・摂関家等に属し雑役を勤めた無位の職。広く雑役を勤める召使をもさす。
(9)佐々木定綱・経高・盛綱・高綱の四兄弟のこと。宇多源氏出身。近江国(滋賀県)を本貫とするが、平治の乱(一一五九)で源義朝に与したため本領を失い、関東に亡命していた。
(10)堤信遠 兼隆の後見で、伊豆国の有力者
(11)北条時政 頼朝の妻政子の父として、幕府創業に活躍。北条氏は桓武平氏貞盛流出身で、伊豆国北条郷(静岡県韮山町)を本貫とし、後に幕府執権となり実権を握る。
(12)源頼朝 清和源氏の出身で義朝の三男。平治の乱の敗北で伊豆国に流罪となる。後に、鎌倉幕府初代将軍となる。武衛とは、律令制の中央常備軍の一つ、兵衛府の漢名で、頼朝が左兵衛佐であったことから、ここでは彼を指す。
〔解 説〕
治承四年(一一八〇)五月下旬、源頼政は以仁王を奉じて挙兵したが、宇治川(京都府宇治市)で敗死した。これは平氏打倒の先駆けである。この挙兵以前、以仁王は東国の諸源氏に平氏討滅の令旨を下していた。伊豆国の流人頼朝の身にも危険が迫っていた。かくて、彼は平氏打倒に兵を挙げることになる。その最初の行動が、史料48に見る、旧源氏家人の招請である。この際、使者となった安達盛長は、妻が頼朝の乳母比企尼の長女の縁から、流人時代の頼朝の側に仕えていた。彼の館は足立郡糠田(鴻巣市糠田)にあったと伝えられ、糠田の放光寺には盛長と伝えられる木像が現存する。また、盛長は『尊卑分脈』によると足立郡の豪族足立氏の系統とされている。
史料49は、頼朝の緒戦、山木夜討である。伊豆国目代山木兼隆は平氏の同国支配の現地最高責任者であるので、彼が最初の攻撃目標になった。頼朝軍は少数の兵力で奇襲策をとり、真夜中に山木(静岡県韮山町)の兼隆館とその北にある後見人堤信遠館を襲い、両者を討ち取り、夜明けに頼朝の待つ北条時政館に凱旋した。この合戦で、盛長は合戰勝利を祈願した三島社への使者を勤めた。
この後頼朝は、伊豆国を制圧しさらに相模国へと進出し、同国の有力豪族三浦氏の援助を得ようと平家軍と対戦したが、同国石桶山(神奈川県小田原市)で、平氏方の大庭景親軍に一敗地にまみれ、房総に渡って再起を期した。

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