北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

元暦元年(一一八四)六月五日
源頼朝は武蔵国の知行国主となり、この日、平賀義信が武蔵守、源範頼は三河守に任じられる。

59 吾妻鏡 元暦元年六月二十日条
廿日丁丑、去五日被行小除目(1)、其除書今日到来武衛令申給任人叓無相違、所謂権大納言平頼盛、侍従同光盛、河内守同保業、讃岐守藤能保、参河守源範頼、駿河守同広綱(2)、武蔵守同義信(3)云々
〔読み下し〕
59 廿日丁丑、去んぬる五日小除目(こじもく)を行わる、その除書今日到来す、武衛(源頼朝)申さしめ給う任人の事、相違なし、いわゆる(人名略)
〔注〕
(1)朝廷で大臣以外の官を任命する儀式 春の県召除目(あがためしじもく)には地方官を中心に、秋の司召除目には京官を中心に任命した。小除目とは、臨時に行われる小規模のものをいう。
(2)清和源氏頼光流出身で、頼政の子
(3)平賀義信 清和源氏義光流の出身、信濃国平賀郷(長野県佐久市)を本拠とする。平治の乱に参加し、敗残の道を義朝と同行している。
〔解 説〕
本史料は、源頼朝が武蔵国知行国主となり、国司に平賀義信らが任命されたものである。ここで知行国とは、特定の個人・寺院に一国の吏務執行権(国務)を与え、その国の収益を得させる制度である。知行国を与えられた者を知行国主といい、国司(守)の推挙選任権を持ち、自分の近親・家人等を推挙する。この推挙任命された国司を名国司といい、一般に国務に当たらず、別に知行国主が派遣する目代が国衙在庁で国務を執行した。
蜂起以来、実力で武蔵国以下を支配してきた頼朝は、義仲の滅亡、一の谷の合戦の勝利と、京都の後白河院の下に従来の「逆賊」から「官軍」に転化し、その実力支配地域での諸権利を院から追認されていく。その一つが頼朝の知行国主化である。鎌倉殿(将軍家)の得た知行国を関東御分国と称し、武蔵国は駿河国と並ぶ最初のものである。両国は、以後、鎌倉幕府滅亡に至るまで関東御分国であり、国司には源氏一族等の東国武士が任官し、京都の公家が任命されることはなかった。なお、平賀義信の武蔵守は、名国司ではなく、吏務執行権を有した国務である(史料59)。
一方、同じ小除目で、源範頼が三河守に任官した。三河国は武蔵・駿河両国と同じく頼朝知行国と思われるが、同じく彼の推薦した平保業の河内守・一条能保の讚岐守がそうでないと同様、当国は範頼の単独国務である。

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