北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

永禄六年(一五六三)二月四日
北条氏康は松山城を奪う。この時、上杉輝虎が石戸に陣を敷く。

187 北条氏康書状写 〔白河証古文書(1)〕
態以一札申届候、先書如申、当城(2)去四日本意、同十一日景虎岩付陣退散候、武田信玄相談於今張陣候、然ニ景虎利根川端二立馬候、地形切処故、于今彼陣へ不指懸候、慥近日可敗北様由来候、然ニ佐竹義昭(3)、景虎為合力、半途被打出由候、其味方中御行此節也、以御籌略、各一同ニ被相調、向佐竹御調念望候、畢竟御前可有之候、就中奮冬預御誓句候、真実忝候、此度及御報候、如何様ニも河村対馬守(4)半途迄参候而、渡可申由申付候、参着是非重而可蒙仰候、恐々謹言
   二月廿一日     氏康(花押)
      白川(5)殿

188 上杉輝虎書状 〔伊藤本文書(6)〕
当国備之儀、無御心元可有之間、以脚力啓札、抑関左之事、先年進発之時分、属本意、諸国備等堅固之間、北条新九郎自身之働依難叶、武田大膳太(大)夫引立出張、就中、去年初冬(永禄五年十月)比、太田美濃守年来拘候堅(号)松山向地、対甲・相両衆、及近陣(ママ)、昼夜無手透、彼要害相攻候、美濃守同心・被官、随分覚者数千人、雖籠置候、武・相境目之地故、味方助(掛カ)引不自由候、其上以多勢取詰候間、城衆及難儀之間、加勢之事、美濃守催促無拠候、内々一勢雖可差越分候、武大(武田信玄)、北新張(北条氏譲)陣、幸今般関東之悪逆人、可成根切以覚悟、去十一月下旬、不図出陣、取分旧冬者深雪故、勢々各も、以駕輿継夜於田(日)越山、凌遠境雪中、励(苦)労通(過カ)御推察候、然者、去二月(永禄六年)上旬、松山敵陣為後詰、先堅(号)石戸地、僅隔五三悉(里カ)陣取之処、勝式(ママ)輝虎越山之儀、有其聞、以来例式両所計策人候条、城中へ入故、果而城衆誑二乗、其上晴信被渡証人故、松山籠城之者共、無恙出城、折節石戸着陣之刻、皆共落来候、城内へ通路諸口堅相塞之間、輝虎後巻、城衆不知而、如此成仕合無是非候、雖然、両軍在陣、遂一戦、可達本望事簡要之間、押詰之、毎日雖動懸、儀(依)大切所、更不取出候条、輝虎改陣所、拋餌兵、可懸腮、雖廻武略候、両所下手切入候故歟、従当軍着(ママ)羽故歟、終不打合候間、所詮越切所、敵陣へ可取懸分候処、其儀内通之族候歟、相驚、以敗軍夜中退散、相隔陣場故不慕(審カ)候、旁以今度不付興亡候事、無念候、乍去、堅(号)武州内崎西(7)地事、奉公ニ候小田伊賀守累代在城、彼人者、成田下総守(8)弟ニ候、対輝虎可有述懐茂(義)雖無之候、兄逆心之間、同前、彼地、元来構四方無浅深限、一段可然地ニ候条、調儀難叶由、年寄共雖申之、対氏康・晴信、不遂一戦候事口惜、殊若年之者共、徒在陣、失勇由申候間、向崎西之地進陣、勢揃、責具以下相調、既外廻輪・中城為取之、実城計事限之処、属美濃守種々懇望之候間、令寛宥候、然間、下総守可渡(覆)先忠由佗言候、幷茂呂因幡守(9)・同兄戸、其身出行、其以来至于野州進馬、小山弾正大弼宿城、向祇園(下野)城進陣、是も二三日疑(頻カ)而相攻之処、拠身上懇望、不私人躰被渡候間、非可為滅者、任佗言候、然間、為始小弾正息・親類・郎従、人質数多差出候、結城之事、小弾正(秀綱)兄弟ニ候、依之、彼前をも深望候間、任其意、輝虎事、先以可納馬之由、絶而意見、爰佐野小太郎、其身若輩候、家中有誘(佞)人、色(ママ)節成表裏候間、向小太郎在城、寄馬候、彼人も先年一子、為証人出置、于今其分ニ候、雖然、家来者共妨故、出陣等不致候、併対名(各)侘言最中ニ候、方々難黙止儘、無事無侘(際)限候条、余人之見湿、可付落居候哉、思案半候、当地一辺不可有程候、其上者、別而可成之行差襲候間、先以可令帰符(府)候、其子細、猶河田豊前守(10)可申届候、恐々謹言
    卯月十五日    輝虎(花押)
    蘆名左京大夫(11)殿

(参考)
  関八州古戦録 〔静嘉堂文庫蔵〕
   北条氏邦、武州足戸(12)攻付宇佐神定勝討死の事
今(同)年壬戌の秋北条氏政の下知を受て北条新太郎氏邦、秩父・鉢形の勢を卒(率)て武蔵国足戸の砦へ押寄攻捕んと欲す。北越の毛利丹後守是を守て居たりけるが克く防て寄手手負、死人多く是悲(非)なく退散お(を)そしたりける。此時毛利(力)方ゟ飛札(脚)を送り厩橋(13)に救を求めける故、北条(城)か与カの士和(侍)田、松円(岡)、寺島已下六七百人加勢として足戸へ越(赴)きける〔か〕宇佐神(見)駿河守良勝か嫡子酒造助(介)定勝今年十七歳当春輝虎の驥(キ)尾に従て越山し弓矢修行の為とて厩橋に留り居けるか、幸の事出来たりとて、手勢引連(れ)、援兵の列に加わりて馳行(ク)所にあし戸のせり合事終て、鉢形衆旗を返しけるに足立の郡上尾〔の〕駅にて(かく)と出逢ひ双方おもひ不ㇾ懸一戦に及ひ宇佐神(美)奮撃して終に討死を遂たりける。流石に父の子程ありて生ひ先き頼もしき若者たるにおしむべ(き)し(事)とて皆人さゝゆきける(なげきあへり)とそ
〔読み下し〕
187 わざわざ一札をもって申し届け候、先書に申す如く、当城去んぬる四日本意、同十一日景虎(上杉)岩付の陣を退散し候、武田信玄に相談し今において張陣し候、しかるに景虎利根川端に馬を立て候、地形切処故、今にかの陣へ指し懸からず候、たしかに近日敗北すべき様由(申)来たり候、しかるに佐竹義昭、景虎合力として、半途打ち出でらるる由に候、その味方中御行この節なり、御籌略をもって、おのおの一同に相調えられ、佐竹に向い御調念望み候、畢竟御前これあるべく候、なかんづく旧冬御誓句に預かり候、真実忝く候、この度御報に及び候、いか様にも河村対馬守半途まで参り候て、渡し申すべき由申し付け候、参着是非重ねて仰せを蒙るべく候、恐々謹言
188  当国備えの儀、御心元なくこれあるべき間、脚力をもって啓札す、そもそも関左の事、先年進発の時分、本意に属す、諸国の備え等堅固の間、北条新九郎(氏康)自身の働き叶いがたきにより、武田大膳太(大)夫(信玄)引立て出張す、なかんづく、去んぬる年初冬のころ、太田美濃守(資正)年来拘え候う松山と堅(号す)地に向い、甲・相両衆に対し、近陣に及び、昼夜手透なくかの要害相攻め候、美濃守の同心・被官、随分と覚しき者数千人、籠め置き候といえども、武・相境目の地故、味方助(掛)引不自由に候、その上多勢をもって取詰め候間、城衆難儀に及ぶの間、加勢の事、美濃守が催促拠(よんどころ)なく候、内々一勢差し越すべき分に候といえども、武大・北新陣を張る、幸い今般関東の惡逆人、根切と成すべき覚悟をもって、去んぬる十一月下旬、図らずして出陣す、取り分け旧冬は深雪故、勢々おのおのも、駕輿をもって夜に田(日)を継ぎ越山す、遠境、雪中を凌る励(苦)労の御推察を通(過)ぎ候、しからば、去んぬる二月上旬、松山敵陣の後詰として、まず石戸と堅(号す)地、わずかに五三悉(里)を隔てて陣取るの処、勝式(ママ)輝虎越山の儀、その聞えあり、以来例式両所の計策人候の条、城中へ入る故、果して城衆誑に乗じ、その上晴信証人(武田信玄)を渡さるの故、松山籠城の者共、恙(つつが)なく城を出づ、折節石戸着陣の刻(みぎり)、皆共落ち来たり候、城内へ通路の諸口堅く相塞ぐの間、輝虎が後巻、城衆知らずして、かくの如き仕合と成り是非なく候、然りといえども、両軍(北条・武田)在陣一戦を遂げ、本望を達すべき事簡要の間、これを押し詰め、毎日動きを懸くるといえども、大切の所に儀(依)りさらに取り出ださず候条、輝虎陣所を改め、餌を兵に拋(なげう)ち、腮を懸くべしと武略を廻らし候といえども、両所の下手に切り入れ候故か、当軍に従う着羽(ママ)故か、終に打ち合わず候の間、しょせん切所を越え、敵陣へ取り懸かるべき分に候処、その儀内通の族(やから)に候か、相驚き、敗軍をもって夜中に退散す、陣場相隔つ故、不慕(審)に候、かたがたもって今度(こたび)興亡に付せず候密、無念に候、去りながら、武州の内崎西と堅(号す)地の事、奉公に候小田伊賀守(朝興)累代在城す、かの人は成田下総守が弟に候、輝虎に対し述懐あるべき茂(儀)これなく候といえども、兄逆心の間、同前なり、かの地、元来四方に浅深限り無き構え、一段としかるべき地に候条、調儀叶いがたき由、年寄共これを申すといえども、氏康・晴信に対し、一戦を遂げず候事口惜く、ことに若年の者共、いたずらに在陣して、勇を失う由申し候間、崎西の地に向い陣を進め、勢を揃え、責具以下(いげ)相調え、すでに外廻(曲)輪・中城これを取らせ、実城ばかりに事限るの処、美濃守に属し種々これを懇望し候間、寛宥せしめ候、しかる間、下総守先忠を渡(覆)すべき由佗言(わびごと)に候、ならびに茂呂因幡守・同兄戸(弟)その身出行す、それ以来野州に至り馬を進め、小山弾正大弼(秀綱)が宿城、祇園城に向い陣を進む、是も二三日疑(しきり)に相攻むるの処、身上を拋ちて懇望す、不私の人体渡され候間、滅ぼさるべきものにあらずして、佗言に任せ候、しかる間、小弾正が息を始めとして親類・郎従の、人質数多く差し出し候、結城の事、小弾正が兄弟に候、これにより、かの前をも深く望み候間、その意に任せ、輝虎が事、まずもって馬を納むべきの由、絶えて意見す、ここに佐野小太郎(昌綱)、その身は若輩に候、家中に誘(佞)人ありて、色節表裏を成し候間、小太郎が在城に向けて馬を寄せ候、かの人も先年一子を証人として出し置き、今にその分に候、しかりといえども家来の者共妨ぐる故、出陣等を致さず候、しかるに名(各)に対し佗言の最中に候、方々黙止しがたきまま、事無く佗(際)限無く候条、余人の見湿、落居に付すべく候や、思案半ばに候、当地一辺程あるべからず候、その上は別して、成すべきの行、差襲ぎ候間、まずもって帰符(府)せしむべく候、その仔細、なお河田豊前守申し届くべく候、  恐々謹言
〔注〕
(1)白川結城氏関係の古文書を収集したもので、本史料は、越後・佐渡両国の古文書集たる「越佐史料」に所収
(2)横見郡松山城のこと
(3)常陸国太田城(茨城県常陸太田市)城主。 佐竹氏は、平安期以来清和源氏の名家で、北常陸の戦国大名
(4)河村定真 河村氏は、相模国の鎌倉御家人波多野氏の血を引き、同国土豪として後北条氏譜代の直臣
(5)結城義親 白川結城氏は、陸奥国白川城(福島県白河市)城主で、下総結城氏の分族
(6)東京府本所区新小梅町徳川昭武氏所蔵。 ただし、現所蔵者は不詳
(7)埼玉郡私市城(騎西町根古屋)
(8)成田長泰 成田氏は、鎌倉御家人の血を引く武蔵国々人で、忍城(行田市本丸)城主
(9)毛呂季忠 毛呂氏は、武蔵国の鎌倉御家人の血を引き、上野国々人で山内上杉氏の家臣
(10)河田長親 上杉謙信の重臣で、後に越中国松倉城(富山健魚津市)城主となる。
(11)芦名盛氏 芦名氏は、相模国の鎌倉御家人三浦氏の庶流で、陸奥国黒川城(福島県会津若松市)城主。盛氏は、芦名氏中興の将として、陸奥国南部に勢威を振った。
(12)武蔵国足立郡石戸か
(13)群馬県前橋市
〔解 説〕
永禄四年(一五六一)九月、太田資正は松山城を奪還したが、北条氏康は直ちに反撃を開始し、翌十月同城を囲んだ。両者は同城をめぐって激しい攻防を繰返した。永禄五年正月、後北条軍は下足立郡に侵攻し、二月にかけて、慈眼寺(大宮市水判土)、蕨(蕨市)、笹目郷(戸田市西部から浦和市西南部)に放火し、四月、松山城の北の大里郡甲山(大里村冑山)に陣取った。一方、七月頃、資正は上田朝直と男衾郡赤浜(寄居町赤浜)で戦った。そして、十一月には氏康に合力するため武田信玄が関東に出馬した。
ここに所載したニ点の書状の史料187・188は、後北条・武田連合軍対上杉軍による松山城攻防戦に関するものである。史料187は、北条氏康から結城義親への書状で松山城奪取成功を告げ、上杉方の佐竹義昭への牽制を依頼したものである。
本史料により、松山落城は、二月四日であることが、確認される。史料188「伊藤本文書」は、上杉輝虎(謙信)より芦名盛氏への書状で、松山落城の経緯と輝虎のその後の行動・帰国の状況を述べたものである。この中で、松山城救援のため、十一月、雪の上越国境の山を突破し、関東に入った上杉軍は、二月上旬、「石戸」、すなわち石戸城に陣取ったことが確認される。本市域の石戸宿に城跡を残す同城は、西に荒川に接し、東に蒲桜で知られた東光寺(石戸宿堀之内)と、谷で隔てられた南北に伸びる台地上に位置する。
また、東に岩付城、南に河越城、西に松山城、北に忍・私市両城を繫ぐ要点に位置する。石戸城は別名天神山城とも呼ばれ、太田道灌が築城し家臣の藤田八右衛門が城主であったと伝えるが、不確かで、その後の変遷も不詳である。しかし、この当時、岩付太田氏の支配下にあり、資正の支城であったことは間違いない。
さて、松山攻防戦は、史料188から分かるように、初冬、後北条・武田両軍の包囲下で、資正支配下の数千の兵が籠城し二月上旬、石戸城に着陣した時には、落城した後だった。そこで、残兵を収容しただけで、両軍の合戦に至らず、同城から兵を返した。史料187「白川証古文書」により、落城が二月四日で、輝虎の退陣が十一日と確認される。謙信は軍勢を引き上げ、上杉軍の石戸城在陣は短期間に終わった。上杉憲勝以下の籠城兵は、後北条・武田の大軍の包曲下、外部との連絡を断たれ、上杉軍の救援を知らず、信玄より証人(人質)を出し籠城兵を助けるとの条件で、降伏したのである。
この後、上杉軍は、後北条方に組した私市城の小田朝興を攻め、兄の忍城主成田長泰とともに帰伏させ、下野国に進み、祇園城(小山城)の小山秀綱、唐沢山城(栃木県佐野市)の佐野昌綱を降し、帰国した。後北条・武田・上杉の東国三大勢力による松山城攻防戦は、上杉輝虎の完敗に終わった。この後、輝虎は関東に出陣しても、上・下野両国を中心に動き、武蔵国内での活動は見えなくなる。
また、松山城主に上田朝直が返り咲き、後北条氏の支城として、その滅亡まで、上田氏が城主の地位を占めるのである。かくて、無二の上杉方だった岩付城主太田資正は松山城を失い、その勢力は頓挫を見せ、後北条氏は武蔵国内における地位を不動のものとした。

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