北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

永禄七年(一五六四)三月二十四日・同八年四月吉日
河目資好は、大島大膳亮に十貫文の地を与えることを証し、ついで大島大炊助に足立郡宮内村十貫五百文の地が与えられたことを証する。

190 河目資好証状写(折紙) 〔武州文書〕
任申其方刷之村拾貫文之所いたし候、いかもけんミつ可被為走廻事、肝要候、為後日如此、恐々謹言
       越前守
 (甲子)三月廿四日 資好(1)(花押)
    大島大膳亮殿

191 河目資好証状写(折紙) 〔武州文書〕
其方拘宮内村(2)、以上十貫五百文所相出候、於此上厳密仁可被為走廻事、肝要候、為後日一筆、仍如件、恐々謹言
  永禄八年   河目越前守
 (乙丑)卯月吉日   資好(花押)
    大島大炊助殿
〔読み下し〕
190 申すに任せその方刷(かいつくろい)の村拾貫文の所いたし候、いかにもげんみつ走り廻らせらるべき事、肝要に候、後日のためかくの如し、恐々謹言
191 その方拘えの宮内村、以上十貫五百文の所相出し候、この上において厳密に走り廻らせらるべき事、肝要に候、後日のため一筆、よって件の如し、恐々謹言
〔注〕
(1)河目資好 出自等は不明。岩付太田氏の家臣
(2)足立郡鴻巣郷にあり、本市宮内に比定される。
〔解 説〕
この二点の史料は、河目資好が大島大膳亮・大炊助に給地を証したものである。史料190の「刷之村」とは、地名のように見えるが、「刷」が容姿をととのえるとか介添とかの意なので、地名ではなく、大島大膳亮がととのえた村の意であろう。そこで、そこはどこであろうか。大島大膳亮の子孫は宮内村(本市宮内)の彦兵衛家で大島大炊助とは近族と考えられ、史料191で、大炊助に足立郡宮内村の地が給付されていることが、確認される。したがって、それはやはり宮内村の内といえる。以上、二点の史料は、戦国期の宮内村の給主が大島氏であり、大膳亮・大炊助に二給されていたことを示すものである。なお、史料191は、本市域の宮内村の初見史料である。以上のことは、史料183で述べたように、当村の開発は大島大炊助等が太田資正より命じられたことを受けている。なお、河目資好は、岩付太田氏の通字「資」を名乗っていることと、同族たる川目(河目)大学が天正五年(一五七七)に岩付衆の奉行(部将)として見えることから、太田氏の上級家臣と考えられ、大島氏は地侍級の下級家臣として、資好の寄子(上級家臣分=寄親の下に付属された下級家臣で、寄親・寄子の軍事組織を編成する)であったといえよう。なお、史料190と史料191の間で、資正追放事件が発生していることは注目される。

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