北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

永禄七年(一五六四)七月二十三日
太田氏資は、後北条氏に与し、父資正を追放する。

192 上杉景虎書状写 〔杉原謙氏所蔵文書(1)〕
(前略)可致和談之事者、聊雖不寄存題目候之、非可奉違背 御下知候間、可応 上意候之段、可捧御請以心底、上使御下向、則関東味方中、対氏康可佞失由、堅申付故、皆共油断之処、御下知如何被成候哉、去月廿三、武州之内、美濃守地利南方江(ママ)君恩、追日色々慮外之別(刷)増進、弥々口惜存計候、此上使者為拙私非整 上意淵底、大館兵部少輔方、伝聞愚意非緩怠之旨、定具可被達 上奏之趣、宜預御披露候、景虎恐惶謹言
    八月四日  藤原(上杉)景虎
 謹上
   大館陸奥守(2)殿

193 太田資武状
 (前略)
源五郎氏康聟之契約者、親岩付ニ罷有時より之事ニ候得共、おさな約束計ニ而、親彼城ニ罷有中者、引取不申かと存候、両氏杉ハ氏康絶シ被申候条、不散其鬱憤、終ニハ弓矢ニ罷成と申候事
岩付之城北条手ニ入候事者、源五郎親を楯出候後之事ニ而候、源五郎子氏康娘之腹ニ女子壱人御座候、それへ十郎氏房嫁申候条、聟名跡之様成物にて御座候事
 (中略)
親ニ候者、源五郎ニ被楯出候義者、岩付表へ氏康重而出馬可為必定間、其節氏康との合戦者、三楽斎手前之以人数計可仕之条、佐竹義宣之祖父義顕幷宇津宮両将をだう勢迄之験ニ頼入度と之調ニ、宇都宮へ罷越、彼表逗留内、侫臣共ノ以諸行、親子間鉾楯ニ罷成、親岩付え不遂本意成行申候事
 (後略)
〔読み下し〕
192 (前路)和談致すべき事は、いささか存じ寄らざる題目に候といえども、御下知に違背し奉るべきにあらざる候間、上意に応うべき候の段、御請を捧ぐべき心底をもってなり、上使の御下向、すなわち関東の味方中、氏康に対し佞失すべき由、堅く申し付くる故、皆ともに油断の処、御下知如何なされ候や、去んぬる月廿三、武州の内、美濃守が地利、南方へ君恩(ママ)、日を追って色々慮外の別(刷)増進し、いよいよ口惜しく存ずるばかりに候、この上は使者拙私がために上意淵底を整うるにあらず、大館兵部少輔方愚意緩怠にあらざるの旨を伝え聞き、定めてつぶさに、上奏に達せらるべきの趣、よろしく御披露に預かるべく候、景虎恐惶謹言
193 (前略)
源五郎(太田氏資)氏康(北条)聟の契約は、親岩付(太田資正)に罷りある時よりの事に候えども、おさな約束ばかりにて、親かの城に罷りある中は、引取り申さずかと存じ候、両氏(上)杉は氏康絶し申され候条、その鬱憤を散ぜず、終には弓矢に罷りなると申し候事
岩付の城北条手に入り候事は、源五郎親を楯出し候後の事にて候、源五郎が子氏康娘の腹に女子壱人御座候、それへ十郎氏房が嫁し申し候条、聟名跡の様なる物にて御座候事
 (中略)
親に候は、源五郎に楯出され候義は、岩付表へ氏康重ねて出馬必定たるべき間、その節氏康との合戦は、三楽斎(太田資正)手前の人数ばかりをもって仕るべきの条、佐竹義宣の祖父義顕ならびに宇津宮(広綱ひろつな)両将をだう(同)勢までの験に頼み入り度きとの調えに、宇都宮へ罷り越し、かの表逗留の内、佞臣共の諸行をもって、親子の間鉾楯に罷りなり、親岩付へ本意を遂げず成り行き申し候事
〔注〕
(1)旧大連市 杉原謙氏所蔵。現在不詳。東京大学史料編纂所影写本による。
(2)大館晴光 大館氏は清和源氏新田氏庶流出身で、在京し室町幕府の帝行人等を勤める。晴光は将軍義輝の側近
〔解 説〕
第二次国府台合戦の敗戦で、反後北条氏の雄太田資正の退勢は決定的となった。この機に北条氏康は岩付太田氏への圧力を強めた。この成果が、所載した二点の史料に見る嫡子資房(氏資)による父資正追放クーデターである。史料192は、上杉謙信が、将軍足利義輝の氏康との和平調停に反論して、関東管領拝領後の経緯と氏康の非違を述べ、将軍近臣の大館晴光に宛てた書状である。ここに、和平調停のため将軍上使を派遣するとの動きの中で、氏康が資正の地(岩付城)を奪ったと非難し、その日付を七月二十三日としている。これは、史料193によると、資正は氏康の岩付城攻撃が避けられないと判断し、味方の常陸国の佐竹義顕と下野国の宇都宮広綱とに救援の相談をするため宇都宮城(栃木県宇都宮市)に赴き、その留守に嫡子資房が家臣と謀り決行したものであった。資正は異腹の次男梶原政景を溺愛し資房を廃嫡しようとしたため、両者の対立を突いて後北条氏が圧力を加え、この事変となったというのである。衰勢の中、あくまでも反後北条氏の立場を堅持する資正に対し、氏資と家臣の大勢が親後北条氏で岩付太田氏の存続を計ったのが、資正追放のクーデターの真相である。かくて、武蔵国の要めである岩付城は後北条氏の手に落ち、氏資は同氏に臣属するのである。この後、資正・政景父子はまず宇都宮広綱の下に身を容せ、上杉謙信の支援の下に岩付城回復を計ることになる。なお、氏資と氏康の娘との結婚は、資正の時に約束されていたが、断絶されたものであった(史料193)。これは氏資の後北条氏臣属後に行われ、氏資の戦死後は、氏房(氏康孫、氏政子)が氏資の娘(小少将)と結婚し、太田氏の名跡を継いだのである。

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