北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

永禄七年(一五六四)九月四日
北条氏康・氏政父子は、石戸・河越に出陣する。

194 那須資矩書状 〔白川文書(1)〕
去比者、御懇答、其以来重而預御書中候、条々本懐之至候、然者、氏治江御通用簡専(専肝カ)候、自愚所、以使彼返札申調進之候、向後者、節々御通信可然候、将亦武田信玄上州出張、安中(2)之地被属本意候、氏康父子当月四日出陣、石戸・川越ニ両所被立馬候、常野両総武上被相談、岩付之地近陣越年ニ相定候、此上珍儀候者、聊可申届候、其御屋裏様躰如何、承度候、恐々謹言
 追啓、下口へ之御返札、則相届候、逐日小田・結城・小山甚深候、可御心安候
        弾正左衛門尉
  九月十五日    資矩(3)(花押)
 白川殿
    御宿所
〔読み下し〕
194 去んぬるころは、御懇答、それ以来重ねて御書中に預かり候、条々本懐の至りに候、しからば、氏治(小田)へ御通用簡専(専肝力)に候、愚所より、使をもってかの返札申し調え、これを進らせ候、向後(きょうこう)は、節々御通信しかるべく候、はたまた武田信玄上州出張、安中の地本意に属され候、氏康父子当月四日出陣、石戸・川越に両所馬を立てられ候、常・野・両総・武・上相談せられ、岩付の地近くに陣し越年に相定め候、この上珍儀に候わば、いささか申し届くべく候、その御屋裏の様体いかん、承りたく候、恐々謹言
 追啓、下口への御返札は、すなわち相届き候、逐日小田・結城(晴朝)・小山(高朝)甚だ深く候、御心安かるべく候
〔注〕
(1)白川結城氏関係の古文書で、宮城県仙台市遠藤敬止氏所蔵。現在不詳。東京大学史料編纂所影写本による。
(2)上野国安中城(群馬県安中市) 上杉方の安中広盛の居城
(3)那須資矩 下野国烏山城主(栃木県烏山町)那須資胤の一族か
〔解 説〕
本史料は、武田信玄が上野国安中城を攻略し、北条氏康・氏政父子が九月四日出陣し、石戸城・河越城に着陣、岩付城近辺で越年することを、陸奥白川城主白川義親に伝えた那須資矩の書状である。この武田信玄の西上野侵攻は、他の史料とも考え合せると、本年のこと故、本史料も本年付けとなる。したがって、氏康・氏政父子の石戸城着陣も本年となる。この氏康出陣は、太田氏資の父資正追放から一貫したもので、「常・野・両総・武・上相談せられ」とあるように、この機に全関東より上杉勢力の排除を目指した全面的攻勢であった。このため、岩付城が本営となるのである。その支点として、石戸城も位置するのである。ここに、岩付城に後北条氏が入ったこと、同時に石戸城や市域もその支配下に入ったことを示している。この後、岩付城は後北条氏の両総・下野・常陸侵攻への拠点となるのである。

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