北本市史 資料編 古代・中世

全般 >> 北本市史 >> 資料編 >> 古代・中世

第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

永禄七年(一五六四)十月十五日
太田氏資は、比企郡井草郷の百姓中に、荒野の開発を命じる。

195 太田氏資印判状 〔武州文書〕
井草之郷、荒野可為十年、前々之百姓等、脇(1)共ニ罷帰、可致打明者也
  永禄七(甲子)年
            (印文不詳)(2)
   十月十五日
     井草
       百姓中
〔読み下し〕
195 井草の郷、荒野は十年たるべし、前々の百姓等、脇(わき)共に罷(まか)り帰り、打明け致すべきものなり
〔注〕
(1)百姓に従属していた農民
(2)「武州文書」では、この印判を「太田美濃守資正」のものと注記しているが、資正はこの年七月に嫡子氏資により城から追放されているので、当時の城主太田氏資の印判状とされる。とするとこれは氏資印判状の初見とされ、氏資の行政権行使の実例として注目される。
〔解 説〕
岩付城主となった太田氏資が、井草郷の百姓中に対し、水損による荒野を十年間租税免除とするので、脇百姓と共に帰村し、開発に当るよう指示した文書である。
井草郷は、永禄六年に水害に見舞われたらしく、その年閏十二月五日、恒岡・佐枝両奉行の連署をもって同郷の堤防修築を命ぜられている。しかし、その被害が大きかったため百姓の離村が多かったので、新城主の氏資は農民と妥協し、荒野を十年間とする特別措置により農民と脇百姓の帰村を促し、水害地の復旧を策したものであろう。父資正追放後の分国不安定な時期における氏資の分国支配策として注目される。

<< 前のページに戻る