北本市史 資料編 古代・中世

全般 >> 北本市史 >> 資料編 >> 古代・中世

第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

永禄八年(一五六五)五月七日
太田資正は、岩付城の回復を計り同城を攻撃するが、失敗する。

197 永禄日記 (1) 〔世良田長楽寺蔵〕
七日(五月)、(前略)留守ニ、自六郎(2)殿返札アリキ、如書中者、以太美(3)計策、岩付へ夜中被打入由、実城(4)自備場被申越候、可為悦喜段也、各承、喜不少、非時ヲハカサニ二アマリ用、及晚太美岩付へ打入、令相違、成田へノケラル卜云説告来キ、朝ハ各喜、暮ニハ恐怖不斜、雖然堅固ニテ太美ノケラル、肝要也
八日、(前略)岩付善悪之巷説マテニテ、実誠(説)無之間金山へ登、太美シボへ宿(5)之近マテツメラル処ニ、談合之内一人クミカワリ相違之間、自半途被打返、下野守(6)・小宮山其外談合衆モ無相違、栗橋へノケラル由、承届帰也、(後略)
〔読み下し〕
197 略
〔注〕
(1)「長楽寺記」等ともいう。上野国長楽寺(群馬県尾島町世良田)の住職賢甫義哲の記した日記で、本年正月より九月までが現存する。長楽寺は、鎌倉期に臨済宗の開祖栄西の高弟栄朝が開山し、関東の名刹として栄えた。
(2)由良国繁のこと
(3)太田美濃守資正
(4)由良成繁
(5)埼玉郡渋江宿(岩槻市)
(6)太田下野守
〔解 説〕
本史料は、太田資正の岩付城回復行動を示すものである。この日、長楽寺住職賢甫義哲は、由良国繁の書状で、太田資正が岩付城に夜討したことを知った。これは上野国金山城(群馬県太田市)城主の父成繁が通知したものである。情報に一喜一憂した賢甫義哲は、翌日、金山城に行き、資正が岩付城下の渋江宿近くまで攻め入ったが、「談合」の一人(おそらく、城内部に内応工作をなしていたのであろう。)が心違えをしたため、途中より引返し、同勢の太田下野守・小宮山氏(いずれも岩付太田氏重臣)も下総国栗橋城(千葉県関宿町)に後退した、との確報をえたのである。こうして、資正の岩付城奪還はならなかったのである。

<< 前のページに戻る