北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

永禄十年(一五六七)八月二十三日
太田氏資は、上総国三船山で里見義弘と戦い、戦死する。

200 北条氏政判物(折紙) 〔平林寺文書〕
今度上総行之砌、於殿太田源五郎越度刻、見届其方兄恒岡越後守(1)討死、誠忠節之至、不浅候、於氏政感悦候、然ニ彼実子無之候間、其方雖沙門之儀候、名字可断絶条、任下知、越後守一跡可有相続候、涯分可引立者也、仍如件
  永禄十年(丁卯)
   九月十日      氏政(花押)
     安首座

201 太田資武状 〔養竹院蔵〕
(前略)
一源五郎者、如御書付、於上総国三舟(2)ニ、永禄九年丙寅八月廿三日討死仕候、其砌枕を双候郎等、五拾三騎、敵者房州里見義弘にて御座候、義弘卜親無二之入魂候得共、兄ニ候源五郎者属氏康味方候故、上総へ出陣仕候事
〔読み下し〕
200 今度(こたび)上総行きの砌、殿(しんがり)において太田源五郎(氏資)越度の刻、その方兄恒岡越後守討死を見届け、誠に忠節の至り、浅からず候、氏政において感悦に候、しかるにかの実子これなく候間、その方沙門の儀に候といえども、名字断絶すべきの条、下知に任せ、越後守一跡相続あるべく候、涯分引き立つべきものなり、よって件の如し
201 一源五郎は、御書付の如く、上総国三舟において、永禄九年(丙寅)八月廿三日討死仕り候、その砌(みぎり)枕を双(なら)ベ候郎等、五拾三騎、敵は房州里見義弘にて御座候、義弘と親無二の入魂に候えども、兄に候源五郎は氏康(北条)の味方に属し候故、上総へ出陣仕り候事
〔注〕
(1)実名不詳 恒岡氏は太田氏の庶流で、岩付太田氏の重臣
(2)上総国三船山のことで、千葉県君津市と富津市の境にある。ここに、後北条氏は里見氏への押えとして砦を築いていた。
〔解 説〕
永禄七年、第二次国府台合戦に敗北した里見義弘は安房国へ退いたが、勢力を盛り返し再び上総国へ進出してきた。この頃後北条氏は同国三船山に砦を築いて押えとした。ここで里見義弘の攻撃により、三船山合戦が生じ、後北条軍が敗北し、岩付城主太田氏資は戦死した。ここに所載のニ点の史料は氏資戦死に関するものである。資料200は北条氏政が三船山決戦での兄恒岡越後守戦死を平林寺住持泰宗安に告げ、還俗してこの跡を継ぐよう命じたものである。ここで、合戦の時、氏資が後北条軍の最後尾に位置していたことがわかる。そして、史料201により、本日(永禄九年は十年の誤り)氏資が家臣五三人とともに戦死したのである。この中に、恒岡越後守が入っていたことはいうまでもない。岩付太田氏は当主を失うとともに、重臣恒岡越後守の戦死に見るように、家臣団にも打撃を受けたのである。岩付衆は主を失い、資頼・資家・資時・資正・氏資と続いた岩付城主としての岩付太田氏は断絶したのである。この後、岩付城とその支配領域下にあった市域も、岩付太田氏の支配から後北条氏の支配下へと新たな時代を迎えることになる

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