北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

元曆元年(一一八四)七月十六日
源頼朝は、渋谷高重の所領上野国黒河郷への国衙使の入部を禁じる。安達盛長が上野国奉行人として執行する。

60 吾妻鏡 元暦元年七月十六日条
十六日壬寅、渋谷次郎高重(1)者、勇敢之器、頗不耻父祖之由、度々預御感、凢於叓快然之余、彼領掌之所於上野国黒河郷、止国衙使入部、可為別納之由、賜御下文(2)、仍今日被仰含其由於国、奉行人藤九郎盛長云々
〔読み下し〕
60 十六日壬寅、渋谷次郎高重は、勇敢の器なり、すこぶる父祖を耻しめざるの由、たびたび御感に預かる、およそ事において快然なるのあまり、かの領掌の所、上野国黒河郷においては、国衙の使の入部を止め、別納たるべきの由、御下文(くだしぶみ)を賜う、よりて今日その由を国に仰せ含めらる、奉行人は藤九郎盛長と云々
〔注〕
(1)桓武平氏良文流の秩父氏族の出身で、相模国渋谷荘(神奈川県大和市等)を本貫とする。
(2)上位者より下位者に下し与える文書。ここでは、頼朝の下文
〔解 説〕
本史料は、源頼朝が相模国の渋谷高重の所領上野国黒河郷(群馬県富岡市)への国衙使の入部を禁止し、年貢の別途納入権を認める命令を出したものである。国衙使の入部禁止とは、検田や年貢の収納等のため、現地に派遣される国衙役人の現地立入りの拒否権をもつこと、すなわち国家警察権の侵入拒否権で、この特権を不入という。一般に荘園の特権の一つであるが、ここでは国衙の支配下にある国衙領(公領)である高重の所領にこの特権を頼朝は与えたが、上野国は役の知行国でもなく本来はかかる行為をする権限はなかった。だが、彼の支配は実力で奪取したものであり、「官軍」化した後にかかる権限を行使したことは、後白河院から東国における支配を追認されたことを示している。これを東国国衙行政権とも呼ぶ。
さて、この頼朝の権限行使において安達盛長が奉行人を勤めている。盛長の上野国奉行人の初見である。国奉行人は本史料に見るように、徴税事務に関係しており、頼朝が実力支配下に入れた関東諸国で、国衙在庁の行政事務指揮のために設置された職と考えられている。上野国守護として比企能員が同時期に推定されているので、国奉行人は、上野国では守護と併置されて、警察権は有していなかったといえよう。なお、比企氏の滅亡(史料75)以後に、安達氏の当国守護在任が確認されており、国奉行人の職能はそれに包摂されたことになる。安達氏は弘安八年(一二ハ五)の滅亡(史料107参照)に至るまで同国守護を保っていた。

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