北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

元亀元年(一五七〇)六月九日
後北条氏は、内山弥右衛門尉に、横見郡大串郷の替地として足立郡間室窪在家分の内を宛行う。

204 北条家印判状写 〔内山文書〕
大串郷(1)無拠子細ニ付而、松山(2)へ相渡候間、為替於間室(3)窪在家分之内、拾壱貫文被下候、残而六貫文不足、当年者、以御蔵出(4)可被下候、自来年者、下地を如元可被下候、陣夫者、松山へ可被遣候間、如此間可召仕者也仍如件
        (禄寿応援)
   永禄脱十三年庚午   奉之
        六月九日  笠原藤左衛門尉(5)
      内山弥右衛門尉殿

〔読み下し〕
204 大串郷拠(よ)んどころなき子細について、松山へ相渡し候間、替えとして間室窪在家分のうちにおいて、拾壱貫文下され候、残りて六貫文不足、当年は御蔵出しをもって下さるべく候、来年よりは下地はもとのごとく下さるべく候、陣夫は松山へ遣わされず候間、かくのごとき間召し仕うべきものなり、よって件の如し
〔注〕
(1)横見郡大串(吉見町大串)
(2)松山城主 上田朝直
(3)足立郡、現在の鴻巣市馬室の内か
(4)給地から直接年貢等を得るのでなく、蔵奉行から扶持銭を与えられること
(5)笠原康明 後北条氏評定衆の一人
〔解 説〕
この史料は、後北条氏が岩付衆の内山弥右衛門尉に、内山氏の給地横見郡大串のうち銀谷十七貫が岩付領から松山領へ編成替えになったので、替地として足立郡間室窪在家分(十一貫文)を与え、不足の六貫文分は、本年は蔵出銭として支給し、来年には土地を与えること、ただし陣夫は松山に渡さないので、従前通り内山氏が召し使ってもよいことを約束した印判状である。太田氏資死後、岩付領を直接支配していた後北条氏が、支配領域の再編成を行った一環として内山氏の所領替えを行った。この時期は、北条氏繁が岩付城代の役割を果たしていたと思われるが、給人の知行及び陣夫役使用に関しては小田原が虎印判状を発給して直接指示していた。その他軍役、大普請等重要事項についても虎印判状が出され、小田原本城の岩付領内への権威の浸透がはかられた。年号の永禄十三年(一五七〇)は四月二十三日に元亀と改元されている。

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