北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

元暦元年(一一八四)十月六日
足立遠元が公文所の吉書始の寄人に任じられる。

61 吾妻鏡 元暦元年十月六日条
六日辛酉、自去夜雨降、午尅属霽、未尅、新造公文所(1)吉書始(2)也、安芸介中原広元(3)為別当着座、斉院次官中原親能、主計允藤原行政、足立右馬允藤内遠元、甲斐四郎大中臣秋家、藤判官代邦通等、為寄人参上、邦通先書吉書、広元披覧御前次相模国中神領仏物等直叓沙汰之、其後行垸飯(4)、武衛出御、千葉介経営、公私有引出物、上分御馬一疋、下各野釼一柄云々
〔読み下し〕
61 六日辛酉、去んぬる夜より雨降る、午尅(うまのこく)に霽に属(つ)く、未尅、新造の公文所(くもんじょ)の吉書始なり、安芸介中原広元、別当として着座す、(人名略)寄人として参上す、邦通まず吉書を書き、広元御前に披覧す、ついで相模国中の神領仏物等の事、これを沙汰す、その後垸飯(おうばん)を行う。武衛(源頼朝)出で御う、千葉介(常胤)経営す、公私の引出物あり、上分は御馬一疋、下はおのおの野剣一柄と云々
〔注〕
(1)律令制度では公文書のことを公文という。公文所は平安時代に国衙で公文を処理する役所をいった。
(2)年始・政始等で事物が改まる時、吉事の文書を奏上する儀礼的な儀式
(3)大江広元 中原広季の子、後に大江姓になる。中原氏は朝廷で歴代大外記を勤める下級貴族であり、大江氏は文章博士を勤める中級貴族である。広元は京都で少外記を歴任し、治承・寿永の内乱を機に鎌倉に下向した。彼のような京都の下級貴族出身者で、鎌倉に下向し鎌倉幕府の官僚になる者を京下官人という。
(4)椀飯・垸仮とも書く。饗応のために設ける食膳、または人を饗応することを意味する。武家では家臣(御家人)が主人(将軍)に対して饗応の宴を張り、歳首椀飯が鎌倉幕府の恒例行事となる。
〔解 説〕
本史料は、鎌倉殿源頼朝の公文所の吉書始の記事である。ここに公文所が開設され、その別当(長官)に中原広元が、寄人(高級職員)には、京下り官人の中原親能(広元の兄)等に伍して、武蔵武士として唯一、足立遠元が任じられた。公文所は、貴族である頼朝の家政機関であるが、実際は鎌倉幕府の庶務を担当した。後に公卿となった頼朝は、その有資格者として公文所の上に政所を関設し、政務全般を担当させた。
よって、御家人統制を任務とする侍所、訴訟裁判を担当する問注所と並び、政所(公文所)は幕府中央三大官衙の一つとなる。遠元が行政実務能力を必要とする公文所寄人に任命されたのは、頼朝の信頼が厚かった面もあるが、武蔵国の有力武士を代表するとともに、彼の縁に繫がる広元・親能・邦通の結節点の意味合いもあった。

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