北本市史 資料編 古代・中世
第2章 中世の北本地域
第3節 後北条氏の支配と北本周辺
天正六年(一五七八)二月六日岩付家臣細谷資満は、知行地の比企郡井草郷の代官百姓らに、不作の田畠の開発を命ずる。
215 細谷資満判物写(折紙) 〔武州文書〕
郷中百姓等、縦如何様之儀申候共、無承引、不作之田畠、如何程も可被開発候、代官其外迄も、少も横合候者、急度致書付、此方へ可被指上候、荒野者、可為十年候、以上
刑部左衛門尉
癸酉 資満(1)(花押)
弐月六日
〔読み下し〕
215 郷中の百姓等、縦え如何様の儀申し候とも、承引無<、不作の田畑如何程も開発せらるべく候、代官その外までも、少しも横合い候は、急度書付致し、此方へ指上げらるべく候、荒野は十年たるべく候、以上
〔注〕
(1) | 天正五年十月二十日付、北条氏印判状の宛名に「井草細刑部左衛門尉方」と見える、井草郷に知行地をもつ岩付太田氏の重臣 |
岩付太田氏の家臣細谷資満が、自身の知行地の井草郷の百姓等に、不作田畑の開発を命じたものである。この際、代官等でも開発を妨害する者は、文書をもって申し出すよう強い姿勢で臨んでいる。私領には代官が置かれないので、おそらく岩付直籍分を支配する代官であり、細谷氏はその監督をも勤めていたのであろう。
開発地の減免措置である荒野扱い十年間は、永禄七年以来の方針であった。この免税措置を行使して農民等に不作田畑の復旧を促したのである。