北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

天正七年(一五七九)七月二十六日
聖護院門跡道澄は、大行院に上足立三十三郷の伊勢・熊野先達衆分の檀那職を安堵する。次いで八月六日、北条家はこれを追認する。

217 聖護院門跡御教書写 〔武州文書〕
    (道澄)(花押)
武州上足立三十三郷伊勢熊野先達衆分檀那職等之事、如先々、不可有相違趣、被成奉書訖、弥全領知可被抽奉公忠功之由、聖護院御門跡(1)所被仰出也、仍執達如件
 天正七年八月廿六日 法印(2)(花押)
           僧都(3)(花押)
     大行院

218 北条家印判状写 〔武州文書〕
上足立丗余郷伊勢熊野先達衆分檀那職之事、聖護院御門跡御証文(4)之旨ニ可相任事、尤無儀候、幷太田一札(5)披見、仍状如件
                  奉之
 天正七年乙卯八月六日 垪和伯耆守(6)

      大行院 
〔読み下し〕
217 (道澄)(花押)
武州上足立三十三郷伊勢熊野先達衆分檀那職等の事、先々の如く、相違有るべからざるの趣、奉書を成されおわんぬ、弥(いよいよ)領地を全うし奉公忠功を抽(ぬきん)ぜらるべきの由、聖護院御門跡(道澄)仰せ出さる所なり、仍(よっ)て執達件(くだん)の如し
218 上足立卅余郷伊勢熊野先達衆分檀那職の事、聖護院御門跡御証文の旨に相任すべき事、尤(もつと)も異儀無く候、并びに太田の一札披見しおわんぬ、仍(よっ)て状件(くだん)の如し
〔注〕
(1)道澄
(2)源要
(3)慶忠
(4)史料217の御教書をさす。
(5)弘治二年三月五日太田資正書状写(史料178)。永禄八年二月二十日太田氏資書状写(史料196)による安堵をさす。
(6)垪和康忠 氏政家臣として岩付領内の相論に糾明の使を勤める。
〔解 説〕
聖護院門跡道澄が足立郡大行院に上足立三十三郷の伊勢・熊野先逹衆分の檀那職を安堵した御教書である。
上・下足立三十三郷の修験道に関するものとしては元亀三年(一五七二)六月晦日付北条氏繁書状写(史料210)に継ぐものである。聖護院門跡の御教書として現在残存しているものでは、天文二十二年(一五五三)五月二十一日付聖護院門跡(道増)御教祖写(史料177)以来となる。この後、再び発給されているのは、大行院と玉林院の間で、足立郡内の檀那支配の境目相論がひきおこされたためで、それに関係するものと推定される。
なお、史料218の北条家印判状写は、この安堵を、北条氏政が追認して発給した一連の文書であり、太田氏よりの前例を引きついでいることを示している。

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