北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

天正七年(一五七九)十月十七日
北条家は、閼伽井坊へ立野苅取りの禁制を下す。

219 北条家禁制 〔明星院文書〕
     禁制       閼伽井坊立野
右当郷立野一本も不可苅取、惣而狼藉致之者有之者 速搦捕可遂披露、就令用捨者領主百姓却而可為罪科者也、 仍如件

         (虎印)
  卯
    十月十七日

〔読み下し〕
219 禁制 閼伽井坊立野
右当郷の立野で一本も刈取るべからず、惣(すべ)て狼藉(ろうぜき)致す者これ有らば、速かに搦め捕り披露を遂ぐべし、用捨せしむるに就ては、領主百姓かえって罪科たるべきものなり、仍って件の如し
〔解 説〕
この文書の年代は不明であるが、虎印判状であるから、岩付城が北条氏の支配下に入る永禄七年(一五六四)以後のものであることは確実である。天正五年(一五七七)に北条氏は足立郡太田窪の千葉殿と比企郡井草郷の細谷刑部左衛門に岩付城修築用として藪の保護を命じているので、干支から推して天正七年のものと思われる。
文書の内容は、閼伽井坊の寺領である立野が領主保護林だったので、竹木の刈り取りを厳禁し、これに違反した者は捕えて裁判に付し、見逃した者は領主・百姓の別なく処罰するとしている。百姓はもち論、後北条氏配下の武士の横暴からも寺領を保護しようとしている。閼伽井坊立野の竹木が、岩付城修築材に予定されていたためである。

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