北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

天正八年(1580)七月二日
北条家は井草郷の代官細谷資満に、荒川堰大普請の人夫を出すことを命ずる。

221 北条家印判状写 〔武州文書〕
当年辰歳大普請人足五人、去年水入付而、春夏をハ加用捨候、然ニ荒川之堰、只今成之候人足、不足候間、申付候、如何様之水入之郷村候共、於大普請ハ、古来致来儀候間、少も無遅々、領主・百姓相弁、来七日ニ荒川端へ集、立川伊賀守如申、中十日普請可致候、又人足数令召連、一日之内ニ可致果も、郷村之随意候、此儀至于無沙汰ハ、領主・百姓共ニ、可為曲事候、水前ニ一刻も相急儀候間、無遅々可罷出者也、仍如件

   庚辰
    七月二日

      井草細谷刑部左衛門
         百姓中
 〔読み下し〕
221 当年辰歳(たつどし)の大普請(ふしん)人足五人、去年水入りに付いて、春夏をば用捨を加え候、然るに荒川の堰(せき)は、只今これを成し候人足不足に候間、申しつけ候、如何様(いかよう)の水入りの郷村候とも、大普請に於ては、古来致し来る儀に候間、少しも遅々なく、領主・百姓相弁(わきま)え、来る七日に荒川端(ばた)へ集まり、立川伊賀守申すが如く、中十日普請を致すべく候、又人足敬を召し連れしめ、一日の内に致し果たすべきも郷村の随意に候、此の儀無沙汰に至りては、領主・百姓ともに、曲事(くせごと)となすべく候、水前に一刻も相急ぎ候間、遅々なく罷(まか)り出ずべきものなり、仍って件の如し
〔解 説〕
この史料は、荒川(現元荒川)の堰普請につき、去年は井草郷が出水のため晋請人足差出しを免除したが、当年の堰大普請は人足が不足であるから、井草郷へ人足五人の差し出しを申しつける。どのような出水の郷村であっても、大普請の場合は古来の仕来りであるから、七月七日に荒川端に集合し、奉行の立川伊賀守の命令に従い、少しも遅滞なく中十日間普請を行え。人数を多く連れて来て、割当の場所を一日で仕上げても勝手である。無届で人足を差し出さないときは、領主も百姓も違法として処罰する。出水期を前にして一刻を争うから、遅れることなく人足を差し出せというものである。但し、ここでいう荒川とは改修前の元荒川をさしている。

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