北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

天正十二年(一五八四)二月八日
太田氏房は、井草の細谷資満分百姓中と八林の道祖土図書分百姓中に箕田郷堤普請のため十日間の出役を命ずる。

229 太田氏房印判状写 〔武州文書〕
去年未歳(1)之大普請之人足五人、無御用ニ付而、不被召仕候、箕田郷(2)堤為水堰(3)、被仰付間、来十九日鍬簣(4)を持、箕田郷集、廿日より廿九日迄十日、奉行如申普請可致候、朝者天明者則出、日之入を切而可致之、致遅々罷出者ハ、為闕如、一日遅参五日可被召仕、是ハ惣国之法ニ候間、存其旨、咎普請不致様ニ、早天より可致者也、仍如件

       (心簡要)
   甲年 
   二月八日
     井草細谷三河守分
           百姓中


230 太田氏房印判状 〔道祖土文書〕
去年未歳大普請之人足壱人、無御用ニ付而、不被召仕候、箕田郷堤為水堰、被仰付間、来十九日鍬簣を持、箕田郷集、廿日より廿九日迄十日、奉行如申普請可致候、朝者天明者則出、日之入を切而可致之、致遅々罷出者ハ、為闕如、一日遅参五日可被召仕、是ハ惣国之法ニ候間、存其旨、咎普請不致様ニ、早天より可致者也、仍如件

      (心簡要)
   甲申
     二月八日

    八林(5)道祖土図書分
           百姓中

〔読み下し〕
229 去んぬる年、未歳の大普請の人足五人、御用無きについて召し仕われず候、箕田郷の堤、水堰として仰せ付けらるの間、来る十九日鍬・簣を持ち、箕田郷へ集まり、廿日より廿九日迄十日、奉行申す如く普請致すべし、朝は天明くれば則ち出で、日の入りを切りてこれを致すべし、遅々致し罷り出ずる者は、闕如として、一日の遅参は五日召し仕わるべし、これは惣国の法に候間、その旨を存じ、咎の普請致さざる様に、早天より致すべきものなり、仍って件の如し
230 略
〔注〕
(1)甲申年の前年天正十一年
(2)鴻巣市箕田付近 元荒川の水を引いて水田を耕植した
(3)元荒川から堤防を越して用水を取り入れる堰
(4)くわともっこ
(5)川島町八林
〔解 説〕
岩付城主太田氏房が、領内の比企郡井草・八林郷の百姓に対し、元荒川流域の箕田郷堤の水堰工事を行うため知行人を通して一〇日間の普請役を課した。人足は去年の大普請役の未消化分として井草郷五人、八林郷一人を徴発した。人足は鍬と簣をもって箕田に集まり、普請奉行の命に従って夜明けから日没まで働き、もし一日遅参したら、惣国の法により咎普請として五日間働かせるという苛酷なものであった。岩付城主は、領内からの年貢増徴を図るため、荒野開発と共に生産基盤の整備を図ったが、右の史料はその一例である。ここでは前年大普請未消化分人足を振替えて徴発しているが、後には史料232に見られるように、豊臣氏との軍事的緊張に対処するため、翌年の大普請人足を先借りすることも行われた。

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