北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

文治元年(一一八五)一月二十六日
平家追討使源範頼は、周防国より豊後国に渡海する。

62 吾妻鏡 文治元年一月二十六日条
廿六日庚戌、惟隆、惟栄(1)等、含参州之命、献八十二艘兵舩、亦周防国住人宇佐那木上七遠隆献兵粮米、依之参州解纜、渡豊後国云々、同時進渡之輩(後略)
〔読み下し〕
62 廿六日庚戌、惟隆、惟栄等、参州(源頼朝)の命を含み、八十二艘の兵船を献ず、また周防国の住人宇佐那木上七遠隆、兵粮米を献ず、これにより参州解纜し、豊後国に渡ると云々、同時に進み渡るの輩(ともがら)(後略)
〔注〕
(1)臼杵惟隆、 緒方惟栄 この兄弟は大神姓の豊後国の武士で、この同族は大野郡を本貫とする有カー族である。なお、兄弟の名字の地は臼杵荘(大分県臼杵市)・緒方荘(同県緒方町)である。
〔解 説〕
本史料は、平家追討使の源範頼が周防国より豊後国に渡海する記事である。範頼は前年八月、鎌倉を出立し西国に向った。しかし、旗下の東国勢は周防国まで到達したが、打ち続く飢饉の中で兵糧に窮して、戦意を喪失し、一歩も前進できない状態であった。範頼は頼朝へ窮状を訴える飛脚を発し救援を求めた。最前線で打開を計っていた範頼の下に、まず以前より独自に平氏への反乱に決起していた豊後国の臼杵惟隆、緒方惟栄兄弟が参加し、ついで周防国武士の宇佐那木遠隆が兵糧米を提供したことで、史料62に見るように範頼軍は九州に上陸できたのである。この直後、平氏方の九州の有力豪族原田種直軍を撃破し、三月の壇の浦海戦での平氏滅亡の前哨となったのである。

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