北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

天正十五年(一五八七)八月七日
太田氏房は、比企郡三保谷郷代官道祖土満兼に召集すべき戦闘要員の定書を出す。次いで翌八日、その交名の報告を命ずる。

237 太田氏房定書 〔道祖土文書〕
      定
於当郷不撰侍凡下(1)、自然当城(2)御用之時、可被召使其名を可記事
此道具、弓・鑓・鉄放、何成共存分次第、或商人、或細工人之類迄、十五・七十を限而、不恐権門可記之、其内手軽可走廻、年比之者撰出、人数可申上事
此走廻心懸相嗜者をハ、侍にても、凡下にても、可有御褒美事
右、自然之時之御用也、八月晦日を切而、右之道具可致支度、郷中之請負、其人之交名(3)以下をハ、当月廿日可申上者也、仍如件
 追而、依所贔屓、書落申ニ付而者、可処厳科者也

         (心簡要)
   丁亥
     八月七日

     三保谷之郷
      道祖土図書助殿

238 太田氏房印判状 〔道祖土文書〕
於当郷自然当城御用之時、可被召仕間、十五・七十を限而記之、就中手軽可走廻者選出人数可申上事
此道具弓・鑓・鉄炮何成共存分次第嗜之、於走廻ハ可被出褒美事
右悉記交名、当月廿三日を切而可申上候、少も於付落者領主可為重科、仍如件

 (天正十五年)
   丁亥     (心簡要)
  八月八日

     道祖土図書殿知行之内 当奉行
〔読み下し〕
237   定
当郷に於て、侍・凡下を撰ばず、自然、当城御用の時召し使わるべき其の名を記すべき事
此の道具は、弓・鑓・鉄放(炮カ)何なりとも存分次第、或いは商人、或いは細工人の類まで十五・七十を限って、権門を恐れずこれを記すべし、其の内手軽に走せ廻るべき年ごろの者を撰び出し、人数を申し上ぐべき事
此の走せ廻りを心懸け相嗜む者をは、侍にても凡下にても御褒美有るべき事
右、自然の時の御用なり、八月晦日を切って、右の道具支度致すべし、郷中の請負、其の人の交名以下をば、当月廿日申し上ぐべきものなり、仍って件の如し
追って、所贔屓により、書き落し申すに付いては、厳科に処すべきものなり
238 
当郷において、自然当城御用の時、召し仕わるベき間、十五・七十を限ってこれを記し、なかんずく手軽く走り廻るべき者を選び出し、人数申し上ぐベき事
この道具、弓・鑓・鉄炮、いずれなりとも、存分次第これを嗜(たしな)み、走り廻るにおいてハ褒美を出さるべき事
右、ことごとく交名(きょうみょう)を記し、当月二十三日を切りて申し上ぐべく候、少しも付け落つるにおいては、領主は重科たるべし、よってくだんのごとし
〔注〕
(1)中世庶民の身分的呼称
(2)岩付城のこと
(3)人名を列挙したもの
〔解 説〕
太田氏房は、豊臣氏に対する抗戦準備として、領国内の郷村に「当城御用」「自然之時之御用」と号して、侍・凡下を問わず、戦陣の際に召し使わるべき一五歳から七〇歳までの総ての動員可能者の名前の書き出しと、武器の用意を命じた。まさに村落根こそぎの軍事動員の一環施策であった。史料237は御領所代官としての道祖土図書助宛てに、一日おいて史料238は図書助知行地に宛てている。同日同文の氏房印判状が内山弥右衛門尉宛にも出されている。

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