北本市史 資料編 古代・中世

全般 >> 北本市史 >> 資料編 >> 古代・中世

第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

天正十五年(一五八七)十二月二十四日
太田氏房は道祖土満兼と内山弥右衛門尉に出陣の備えと妻子の岩付入城ならびに兵糧の納入を命ずる。

239 太田氏房印判状 〔道祖土文書〕
来年者、五十日之内可為出陣間、妻子以下之仕置、各心安様可申付間、妻子召連、来廿八日を切而、岩付大構之内へ可罷移、兵糧事者、来年五日を切而可上之、廿九日二者、各御寄可被仰付、若日限相違付而者、可処厳科者也、仍如户

       (心簡要)
    極月廿四日

     道祖土図書殿

240 太田氏房印判状写 〔内山文書〕
来年者、五日之内可為出陣候間、妻子以下仕置、各心安様可申付候間、妻子召連、来ル二十八日を切而、岩付大構之内へ可罷移、兵糧之事ハ、来年五日を切而可上之、廿九日ニ者、各召寄可被仰付候、若日限相違付而者、可処厳科者也、仍如件

        (心簡要)
    極月廿四日

     内山弥右衛門尉殿
〔読み下し〕
239 来年は、五十日の内出陣たるべき間、妻子以下の仕置き、おのおの心安かるよう申し付くべき間、妻子召し連れ、来る二十八日を切りて岩付大構の内へ罷り移るべし、兵糧の事は、来る五日を切りてこれを上ぐベし、二十九日ニはおのおの御寄せ仰せつけらるべし、もし日限相違に付きては厳科に処すべきものなり、よってくだんのごとし
240 略
〔解 説〕
二点の史料は、五十日(史料は写のため、「五日」は「五十日」の脱写))の内に出陣があるので、妻子を十二月二十八日までに岩付城大構に入城させ、兵糧を来年正月五日までに納入し、二十九日に自身も入城することを岩付衆の道祖土満兼・内山弥右衛門尉に命令した太田氏房の印判状である。この日限に遅れれば処罰されるのである。ここで妻子の入城はその保護の意味もあるが、当然ながら人質としてであった。

<< 前のページに戻る