北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

天正十六年(一五八八)五月五日
太田氏房は、道祖土図書助・野口内膳らに所定の人数を引き連れ、小田原番衆としての出役を命じる。

244 太田氏房印判状 〔道祖土文書〕
   小田原番衆
三人 道祖土図書
三人 野口内膳
三人 山田宮内

   島根近江(1)
五人{
   横山分

二人 勝兵庫
弐人〇右谷民部
三人 高萩右馬助
   以上、廿二人
右、今日自五日十三日迄九日休、十四日ニハ、太田備中・潮田(2)如申可罷立、十五日無嫌風雨、小田原へ打着、番所可請取、此度者、鑓其外厳密ニ為持可申、役所請取間、大方ニ致覚語(悟)、着到不参候者、可為重科也、仍如件

       (心筒要)
    子
     五月五日

〔読み下し〕
244 (前略)
右、今日五日より十三日迄九日休み、十四日ニハ、太田備中・潮田申すごとく罷り立つべし、十五日風雨を嫌うなく小田原へ打ち着き、番所を請け取るべし、このたびは、鑓そのほか厳密ニ持たせ申すべし、役所請け取りの間、大方に覚語(悟)を致し、着到不参候わば、重科たるべきなり、よってくだんのごとし
〔注〕
(1)岩付の石倉小奉行をつとめた島根佐渡守の一族か
(2)太田資正の四男、潮田資忠
〔解 説〕
岩付城主太田氏房が、道祖土図書助ら八人の家臣に対し、自身を含め二二人を引き連れ、奉行の太田備中・潮田の指揮のもと、五月十五日に小田原番衆として参集するよう命じたものである。道祖土図書の割当は所定の着到の軍役人数で他も同様であったろう。五日から十三日までの九日間は、小田原出陣の前の休暇だったろう。一同は着到に従った武器の持参を申し付けられていた。子の年は時勢の状況からみて天正十六年と推定される。

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