北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

文治元年(一一八五)十月十七日
水尾谷十郎は、土佐坊昌俊とともに、京の源義経を襲撃する。

63 吾妻鏡 文治元年十月十七日条
十七日丙寅、土左房昌俊(1)、先日依含関東厳命、相具水尾谷十郎(2)已下六十余騎軍士、襲伊予大夫判官義経六条室町亭、于時予州方壮士善逍遥西河辺之間、所残留之家人雖不幾、相具佐藤四郎兵衛尉忠信等、自開門戸、懸出責戦、行家伝聞此事、自後面来加、相共防戦、仍小時昌俊退散、予州家人等走散求之、予州則馳参 仙洞、奏無為之由云々
〔読み下し〕
63 十七日丙寅、土佐房昌俊、先日関東の厳命を含むにより、水尾谷十郎已下(いげ)六十余騎の軍士を相具し、伊予大夫判官義経(源)の六条室町亭を襲う、時に予州方の壮士等西河の辺を逍遥するの間、残留する所の家人幾(いくばく)ならずといえども、佐藤四郎兵衛尉忠信等を相具し、自から門戸を開き、懸け出で責め戦う、行家(源)この事を伝え聞き、後面より来り加わり、相共に防ぎ戦う、よりて小時して昌俊退散す、予州の家人等走り散りこれを求む、予州すなわち仙洞に馳せ参り、無為の由を奏すと云々
〔注〕
(1)渋谷金王丸(源義朝の侍童としてその横死まで同行した。)の出家後の姿との説もある。
(2)実名不詳 水尾谷氏は、比企郡三保谷郷(川島町三保谷宿)を名字の地とする武士で、出身は不明。なお、同町表に館があったと伝える。
〔解 説〕
本史料は、土佐房昌俊が京都に源義経を襲擊し失敗したことを伝えるものである。この襲撃に武蔵武士の水尾谷十郎が加わっており、同氏の『吾妻鏡』での初見記事である。頼朝異母弟の義経は軍事能力に長けていたが、後白河院により頼朝の対抗馬に仕立てあげられ、兄の警戒を深めた。壇の浦海戦の勝利で義経の勢威は高まったが、鎌倉に独自の武家政権を樹立しようとする頼朝と、院の近臣としての道を歩もうとする義経との間に根本的差異があり、その溝は深まる一方だった。かくて、頼朝は義経の暗殺を謀り、京都に刺客として昌俊以下を送ったのである。しかし、この企ては失敗した。翌日、義経は院に迫り頼朝追討の宣旨を出させた。だが、義経の決起は脆くも潰え、長い潜伏の旅が始まるのである

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