北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

天正十八年(一五九〇)二月十二日
太田氏房は、道祖土満兼に、岩付城修理人足の徴発を命ずる。

251 太田氏房印判状 〔道祖土文書〕
今度肝要之普請候間、申出候、屋敷一間より一人ッゝ、中五日之人足、無相違可出候、若不参之者有之者、可為越度者也、仍如件

      (心簡要)
  寅
  二月十二日

    道祖土図書
〔読み下し]
251 このたび肝要の普請候間、申し出で候、屋敷一間より一人ヅツ、中五日の人足、相違なく出すべく候、もし不参の者これあらば、越度たるべきものなり、よつてくだんのごとし
〔解 説〕
本史料は、「肝要の普請」のため、屋敷(棟別)一間につき人足一人ずつを五日間出役させるように、道祖土満兼に命じた太田氏房の印判状である。文末には「(寅)」と、十二支しか記していないが、「肝要の普請」と最重要事の工事としており、また氏房が、岩付城主として全権を把握した天正十一年(一五八三)以後の寅年は十八年のみなので、本史料は本年のものとした。また、この普請役は、小田原城に関する文言がないことから、岩付城修築に伴うものであろう。岩付城防備工事も急を告げていたことがわかる。

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