北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

天正十八年(一五九〇)二月十四日
北条家は、上田掃部助の知行する比企郡戸守郷の百姓深谷兵衛尉の岩付領への欠落につき、人返令書を発する。

252 北条氏印判状 〔大口氏所蔵文書〕
上田掃部助知行戸森之郷(1)百姓深谷兵衛尉、年貢引負欠落(2)、岩付領一本木之宿(3)ニ有之由申上候、国法ニ候間、彼郷之領主・代官ニ申断、可召還候、難渋ニ付而者、急度可有披露候、仍如件

 (天正十八年)
       (虎朱印)
 庚寅          奉之
   二月十四日        松田

    上田掃部助(4)殿

253 太田氏房印判状        〔武州文書〕
右衛門尉(5)欠落ニ付而、郷中之者并披官等引明候由、少も無異儀間、百姓披官罷帰、此度之普請可走廻候、殊更鍬先(6)ニ候間、作敷(7)をも可仕付者也、仍如件


 庚刁三月廿日

        右衛門尉
          披官
          名主
          百姓中
〔読み下し〕
252 上田掃部助知行戸森郷百姓深谷兵衛尉、年貢引き負い欠け落ちし、岩付領一本木の宿にこれある由申し上げ候、国法に候間、彼の郷の領主・代官に申し断わり、召し還すべく候、難渋に付いては急度披露あるべく候、仍って件の如し
253 右衛門尉欠け落ちに付いて、郷中の者並びに披(被)官等引き明かし候由、少しも異儀無き間、百姓披官罷り帰り、このたびの普請走せ廻るべく候、殊更鍬先に候間、作敷をも仕付けべきものなり、仍って件の如し
〔注〕
(1)川島町戸守を中心とする地
(2)逐電・失踪の意
(3)川島町一本木
(4)松山城主上田氏の一族か
(5)木内右衛門尉
(6)開発地を耕作する権利
(7)加地子(地代の一種)を取得する権利
〔解 説〕
上田掃部助が、自分の知行地である戸森(守)郷の百姓深谷兵衛尉が、年貢を払わず近くの岩付領の一本木宿にいることを知り、その旨を後北条氏に訴え出た。後北条氏は国法であるからと欠落百姓を一本木の領主・代官に断わり、召還させるよう達したものである。対豊臣戦を控えた後北条氏にとって分国内百姓の抵抗は大きな打擊であったので、厳として人返しを命じたのである。
農民の欠落が村ぐるみとなった郷中明けの例が、史料253の欠落事件である。岩付領の大田窪郷では、土豪の木内兵衛尉の欠落を契機として、郷中の百姓や被官までがそろって郷中明けを実施した。事態を重視した氏房は、他への波及を恐れて罰しないこととし、代って普請役や耕作に専念することを命じた。城普請を中心とする相次ぐ普請役を忌避しての欠落と考えられる。

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