北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

天正十八年(一五九〇)五月二十日
岩付城は、豊臣秀吉の派遣した浅野長吉・木村ーらの軍勢により陥落する。次いで六月五日、秀吉は筑紫長門に岩付・忍城などの攻略の状況を伝える。

254 豊臣秀吉朱印状 〔埼玉県立博物館所蔵文書〕
武州岩付城二・三之丸迄追破、頸数多討捕候旨、浅野弾正少弼(1)・木村常陸介(2)かたより、昨夕注進候二付而、様躰被仰含、御上使両三人(3)被差越候、其趣、弾正・常陸可申聞候、各同前ニ無由断城取詰、一人も不洩可討果候、女子共ハ、悉此方へ可差越候、引散候者可為越度候、委細両三使可申候也
        (糸印)
   五月廿二日 
     本多中務少輔(4)とのへ
     鳥井彦右衛門尉(5)とのへ
     平岩七介(6)とのへ

255 豊臣秀吉朱印状 〔筑紫文書〕
為御陣見廻、使札被加御披見候、遠路悦思召候、然者東八州城々、何茂命之儀、御侘言申上二付、悉被助命候、鉢形・忍・八王寺・岩付城ハ、不被聞召入候、此内可然城、次第、為被加御成敗、先岩付城、浅野弾正・木村常陸・山崎(7)・岡本(8)・家康内本田(多)・烏居・平岩以下、以二万余、去月廿日押寄、外内輪共則時ニ乗崩、首千余討捕之、本丸迄責詰、妻子・町人以下、相残居候を被為助命、城落居候、次北条安房守種々御佗言雖申上候、鉢形城、越後宰相中将(9)・加賀宰相(10)・浅野・木村を初而五万余被押懸候、併達而命之儀、御佗言申上候条、被及御思唯(惟)候、忍城へ石田治部少輔(11)ニ佐竹・宇都宮・多賀谷・水谷・結城以下被相添、二万余を以、被為取詰候、是又、様々御理申上候、小田原之儀弥堅被取巻、仕寄丈夫ニ被仰付候、籠城之上下、悉可被干殺御存分候、其段不可有程候、猶、浅野弾正少弼可申候也
       (糸印)
   六月五日 
      筑紫上野介(12)とのへ
〔読み下し〕
254 武州岩付城二三之丸まで追い破り、頸数多(あまた)討ち捕り候旨、浅野弾正少弼・木村常陸介かたより、昨夕注進候に付きて、様体仰せ含められ、御上使両三人差し越され候、その趣弾正・常陸に申し聞かすべく候、各同(おのおの)前に由(油)断なく城取り詰め、一人も洩らさず討ち果たすべく候、女子共は悉(ことごと)くこの方へ差し越すべく候、引き散らし候わば越度たるべく候、委細は両三使申すべく候なり
255 御陣見廻りとして、使札御披見加えられ候、遠路悦び思(おぼ)し召し候、しからば東八州の城々、何れも命の儀御侘言申し上ぐるに付き、悉く助命せられ候、鉢形・忍・八王寺(子)・岩付城は、聞こし召し入れられず候、この内しかるべき城、次第御成敗を加えられんがため、まず岩付城、浅野弾正・木村常陸・山崎・岡本、家康の内本田(多)・鳥居・平岩以下二万余をもつて、去んぬる月廿日に押し寄せ、外内輸とも則時ニ乘り崩し、首千余これを討ち捕らえ、本丸まで責め詰め、妻子・町人以下相残り居り候を助命せられ、城落居し候、次いで北条安房守種々御侘言申し上げ候といえども、鉢形城越後宰相中将・加賀宰相・浅野・木村を初めとして五万余押し懸けられ候、しかしながらたつて命の儀、御侘言申し上げ候条、御思唯(惟)に及ばれ候、忍城へ石田治部少輔に佐竹・宇都宮・多賀谷・水谷・結城以下相添えられ、二万余をもって取り詰めさせられ候、これまた様々御理申し上げ候、小田原の儀、いよいよ堅く取り巻かれ、仕寄せ丈夫に仰せ付けられ候、籠城の上下、悉く御存分に干し殺さるベく候、その段程あるべからず候、なお浅野弾正少弼申すべく候なり
〔注〕
(1)浅野長吉(長政) 尾張国出身で、はじめ織田信長の臣、後に羽柴(豊臣)秀吉の臣となる。秀吉とは相婿で、その側近として重用され、後に五奉行首座になる。関東・奥州平定戦当時は若狭国小浜城主(福井県小浜市)、戦後に甲斐国二十二万石に増封される。
(2)木村一(重玆) 秀吉の臣で、越前国府中城主。後に山城国淀城主(京都府京都市)十八万石となるが、豊臣秀次事件に連坐して自害
(3)伏見飛騨守・滝川忠征(法忠)・大屋弥八郎の三人のことで、いずれも秀吉の使番(本営直属連絡将校)を勤めている。
(4)本多忠勝 德川氏三河譜代の直臣で、家康の四天王の一人に数えられる重臣
(5)鳥居元忠 徳川氏三河譜代の直臣で、家康の駿河人質時代に供として従い、甲斐国郡内城代(山梨県大月市)。後に関ヶ原合戦に先立ち、山城国伏見城守将として戦死
(6)平岩親吉 徳川氏三河譜代の直臣で、家康の駿河人質時代に供として従い、甲斐国郡代。(4~6))の忠勝・元忠・親吉の三人は、後北条氏攻擊の徳川軍の先手大将を勤めている。
(7)山崎堅家 近江国出身で、織田信長の臣を経て、秀吉の臣となり、摂津国三田城主(兵庫県三田市)二万石
(8)岡本良勝 伊勢国出身か。織田信孝(信長子)に仕え、後秀吉の臣となり、伊勢国龟山城主(三重県亀山市)二万石
(9)上杉景勝
(10)前田利家
(11)石田三成
(12)筑後国山下城主筑紫広門
〔解 説〕
四月、小田原本城の包囲を完成させた豊臣軍は、後北条氏領国内に軍勢を派遣し、その支城を攻略していった。五月中旬までに、武蔵国内では江戸・河越・松山城が無血開城しており、野州・房総の諸城も開城していた。小田原本城の外、わずかに岩付等の数城が残るのみとなっていた。
史料254は、岩付城二・三の丸攻略の報告を得た秀吉が、上使三人を派遣することと、以後の城攻略の指示を、徳川家康の部将本多忠勝・居元忠・平岩親吉の三人に伝えた秀吉の朱印状である。これによると岩付城陥落の日は五月二十日であることがわかる。
史料255は筑紫広門に、岩付・鉢形両城陥落、忍城攻撃、小田原城兵糧攻めを伝えた秀吉の朱印状である。

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