北本市史 資料編 古代・中世

全般 >> 北本市史 >> 資料編 >> 古代・中世

第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

文治三年(一一八七)十月十三日
吉見頼綱は、畠山重忠の所領伊勢国沼田御厨を宛行われる。

64 吾妻鏡 文治三年十月十三日条
十月十三日庚辰、依太神宮(1)神人等之訴訟、被召放畠山次郎重忠(2)所領伊勢国沼田御厨、被宛行吉見次郎頼綱(3)、仍於重忠者、雖召禁其身、申不知子細之由、頗有陳謝欤之間、厚免已畢、至当御厨者、賜他人之旨、被仰神宮之上、員部(源)大領家綱所領資材等、任員数可沙汰付本主、雖向後、於彼辺、可停止武士狼藉之趣、令下知山城介久兼給云々
〔読み下し〕
64 十三日、庚辰、大神宮の神人等の訴訟によつて、畠山次郎重忠が所領伊勢国沼田御厨を召し放たれ、吉見次郎頼綱に宛て行わる、よって重忠においては、その身を召し禁(いまし)めらるといえども、子細を知らざるの由を申し、すこぶる陳謝あるかの間、厚免すでにおわんぬ、当御厨に至りては、他人に賜わるの旨、神宮に仰せらるるの上、員部大領家綱が所領資財等、員数に任せ本主に沙汰し付くべし、向後といえども、かの辺において武士の狼藉を停止すべきの趣、山城介久兼に下知せしめ給うと云々
〔注〕
(1)三重県伊勢市の伊勢大神宮
(2)坂東八平氏の一の秩父氏の族、武蔵国留守所総検校職を務めた秩父重綱の孫、畠山重能の子、初め平氏に仕えたが、後源頼朝に従い、数々の戦闘で先陣を務めた代表的な武蔵武士
(3)武州横見郡吉見郷出身の鎌倉武士 一説に源範頼の子とする伝承もあるが、範頼とは同時代に活躍しており、子とすると年時的に整合しない。また、室町初頭編纂の『尊卑分脈』所収の系図にも頼綱の名は見えないので、範頼系吉見氏とは別流の人物と考えられる。
〔解 説〕
史料64は、源頼朝の有力御家人であった畠山重忠が、数々の軍功により伊勢国沼田御厨を与えられていた。重忠は、伊勢が遠隔地であったため代官真正を派遣して在地の支配に当らせた。ところが文治三年六月、真正は非法を働き領家の伊勢外宮の神人から訴えられた。信仰心の篤い頼朝は、これを重忠の非違として所領沼田御厨の地を没収し、真正が奪った資財を本主に返還させ、神宮領における武士の浪籍を禁止した。そして御厨を吉見頼綱に与えたというものである。吉見頼綱はその苗字から、横見郡吉見郷出身の武蔵武士と思われるが、その出身は明らかでない。
当時の伊勢国は、平家没官領が多く存在し、また、頼朝と義経の対立もあって、鎌倉側の取締りが強化されるという状況下で、各地に地頭対本所・領家による所領紛争が見られた。これもその一事件とみられる。

<< 前のページに戻る