北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

文治五年(一一八九)七月十日
源頼朝は、伊勢国沼田御厨の地頭吉見頼綱の不法を停止させる。

65 吾妻鏡 文治五年七月十日条
七月十日戊辰、大神宮領伊勢国沼田御厨土民(1)等捧訴状、去比参着、当所、元畠山次郎重忠充賜之処、依員弁大領(2)家綱之訴状、被収公之、賜吉見次郎頼綱訖、而頼網亦巧不義、追捕民戸、点定財宝云々、仍今日有沙汰、為平民部丞盛時奉行、早可令停止彼非拠之由、可下知之旨、被仰遣山城介久兼、為抽征伐御祈禱、以及急速裁許云々
〔読み下し〕
65 十日、戊辰、大神宮領伊勢国沼田御厨の土民等、訴状を捧げ、去んぬるころ参着す、当所はもと畠山次郎重忠充て賜わるのところ、員弁大領家綱の訴状によってこれを収公せられ、吉見次郎頼綱に賜いおわんぬ、しかるに頼綱また不義を巧み、民戸を追捕し財宝を点定すと云々、よって今日沙汰ありて、平民部丞盛時奉行として、早くかの非拠を停止せしむべきの由、下知すべきの旨、山城介久兼に仰せ遣わさる、征伐の御祈祷を抽んでんがために、もって急速の裁許に及ぶと云々
〔注〕
(1)土地に住む住民、百姓
(2)伊勢国員弁郡の郡司(大領)
〔解 説〕
史料64に見られるように、文治三年十月、畠山重忠の所領であった伊勢国沼田御厨の地頭職は、重忠の代官の非法により没収され、吉見頼綱に与えられた。ところが本史料によると、今度は頼綱が重忠の代官と同様に「不義を巧み、民戸を追捕し、財宝を点定」したことにより、頼朝の命によりその不法を停止されたというものである。前述のように義経追捕を目的とした守護・地頭の設置は、特に平家没官領において鎌倉御家人の地頭と、在地農民や本所・領家との間に対立が頻発していたのである。この地が伊勢大神宮領であったため、頼朝の対応は殊に厳しいものがあったのである。なお、吉見頼綱のこの後の動向については史料がなく明らかでない。鎌倉末から南北朝にかけて伊勢国では吉見氏の活躍が見られるが、その関係も論証できない。

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