北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

建久元年(一一九〇)十二月十一日
足立遠元は、勲功賞一〇人の一人に選ばれ、左衛門尉に任じられる。

68 吾妻鏡 建久元年十二月十一日条
十一日辛卯、前右大将家令参院内給、数尅御祗候、御家人十人募成功(1)、被挙任左右兵衛尉左右衛門尉等、是依度々勲功之労、可挙申廿人之旨、所被仰下也、幕下頻雖被辞申之勅命再往之間、畧而被申任十人云々
左兵衛尉平常秀祖父常胤同景茂父景時
勲功賞譲同賞譲
藤原朝重父知家
同賞譲
右兵衛尉平義村父義澄同清重勲功賞
同賞譲
左衛門尉平義盛父義澄同義連同賞
藤原遠元同賞
元前右馬允
右衛門尉藤原朝政同賞同能員同賞
元前右兵衛尉
〔読み下し〕
68 十一日辛卯、前右大将(源頼朝)家、院内に参らしめ給う、数尅御祗候、御家人十人成功(じょうごう)に募り、左右兵衛尉(ひょうえのじょう)、左右衛門尉(えもんのじょう)等に挙任せらる、これ度々勲功の労により、廿人を挙げ申すべきの旨、仰せ下さるる所なり、幕下しきりにこれを辞し申さるといえども、勅命再往の間、略して十人を申任ぜらると云々
〔注〕
(1)平安中期以後の朝廷に資財を献じた者に官位を与える制度で、売官の一つ
〔解 説〕
奥州藤原氏を滅ぼし、全国に勢威を及ぼした源頼朝は、前項で述べたように初めての上京を果たし、右大将に任じられた。後白河院は、この奥州藤原氏討滅の勲功で、頼朝の御家人に対しても任官を諮った。それが、本史料である。御家人にとって官位は垂涎の的たる名誉であり、「鎌倉殿」頼朝の推薦承認なしの御家人の任官を禁止するのが、幕府の原則である。この場合も、その原則を通し、院の二十人を推挙するようにとの要請に対して、辞退して十人を推挙し、律令制の中央常備軍官衙の衛門・兵衛府の三等官たる尉に任命された。このー〇人は、相模国の三浦・和田・佐原・梶原氏、武蔵国の比企氏、下総国の千葉・葛西氏、常陸国の八田氏、下野国の小山氏と、いずれも幕府創業に功績の高い氏族で、その中に、足立遠元も入り左衛門尉に任官した。遠元は面目を施したことになる。

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