北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

治承四年(一一八〇)十月二日
足立遠元は、隅田川を渡って武蔵国に入った源頼朝の下に参向する。

50 吾妻鏡 治承四年十月二日条
二日辛巳、武衛相乗于常胤(1)廣常(2)等之舟檄、済大井隅田両河、精兵及三万余騎、赴武蔵国、豊島権守清元(3)、葛西三郎清重(4)等、最前参上、又足立右馬允遠元、兼日依受命、為御迎参向云々
〔読み下し〕
50 二日辛巳、武衛(源頼朝)、常胤・広常等の舟橄(しゅうしゅう)に相乗り、大井・隅田の両河を済(わた)る、精兵三万余騎に及び、武蔵国に赴く、豊島権守清元、葛西三郎清重等、最前に参上す、また足立右馬允遠元、兼日に命を受くるによりて、御迎えとして参向すと云々
〔注〕
(1)千葉常胤 千葉氏は、桓武平氏良文流で常兼(常胤祖父)を始祖とし、下総国千葉荘(千葉県千葉市)を本貫とする同国の有力豪族
(2)上総広常 上総氏は、桓武平氏良文流で、上総国を本貫とし、上総一国を越える規模の勢力を有する関東最大級の豪族。なお、千葉氏は上総氏の分流
(3)(4)清元・清重ともに、桓武平氏良文流の秩父氏の分流 豊島氏は武蔵国豊島荘(東京都北区等)、葛西氏は豊島氏より分れ、下総国葛西御厨(東京都)を本貫とし、両氏は武蔵・下総両国の境である隅田川の両岸に位置していた。
〔解 説〕
安房国で再起した源頼朝は、千葉常胤ついで上総介広常の参陣を得て万余の大軍となり、武蔵・下総両国の境の隅田川に兵を進めた。本史料は、頼朝が太井川(江戸川)・隅田川を渡り、武蔵国に初めて足跡を印したものである。ここで、両岸に本貫を持つ豊島清元・葛西清重の参加が渡河を保証している。そして、足立遠元が予てからの命により参上した。足立氏は、藤原氏を称するが、足立郡司武蔵武芝の後裔とも考えられ(太田亮『姓氏家系辞典』)、足立郡を本貫とする武蔵の有力武士である。遠元の館としては、桶川市末広二丁目・大宮市植田谷本等が伝えられている。また『尊卑分脈』では安逹盛長は遠元の叔父とも考えられる。遠元は早くから源義朝に仕え、保元・平治の両乱にも参戦していた。義朝討死後は源氏の再興を期待しつつ足立郡で逼塞していた。この縁から遠元が、石橋山合戦の時平氏方に味方していた他の武蔵武士に先駆けて、頼朝の下に参上したのである。

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