北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

建久四年(一一九三)八月十七日
源範頼は、伊豆国に流され、後に殺される。

69 吾妻鏡 建久四年八月十七日条
十七日辛亥、参河守範頼朝臣被下向伊豆国、狩野介宗茂、宇佐美三郎祐茂等所預守護也、帰参不可有其期、偏如配流、当麻太郎被遣薩摩国、忽可被誅之処、折節依姫君御不例、被緩其刑云々、是陰謀之構達上聞畢、雖被進起請文、当麻所行依、難被宥之、及此儀云々
 
70 保暦間記(1) 〔群書類従〕
(前略)同八月三河守範頼被誅畢ヌ、其故ハ去ル富士ノ狩ノ時、狩場ニテ大将殿(源頼朝)ノ打レサセ給卜云事鎌倉へ聞エタリケルニ、二位殿(北条政子)大ニ騒デ歎セ給ケルニ、範頼鎌倉ニ留守也ケルガ、範頼左テ候ヘバ御代ハ何事力候ベキト慰メ申タリケルヲ、扨ハ世ニ心ヲ懸タルカトテ被ㇾ誅ケルトカヤ(後略)
〔読み下し〕
69十七日辛亥、参河守範頼朝臣、伊豆国に下向せらる、狩野介宗茂、宇佐美三郎祐茂等預り守護する所なり、帰参その期あるべからず、ひとえに配流の如し、当麻太郎は薩摩国に遣わさる、たちまちに誅せらるベきの処、おりふし姫君(大姫)の御不例により、その刑を緩めらると云々、これ陰謀の構え上聞に達しおわんぬ、起請文を進めらるといえども、当麻が所行これを宥されがたきにより、この儀に及ぶと云々
70
〔注〕
(1)保元元年(一一五六)より暦応元年(一三三八)までの歴史を、仏教の因果思想で記述した歴史書で、南北朝期に著述されたが、筆者は不明
〔解 説〕
後白河院死去後の建久三年(一一九二)七月、源頼朝は征夷大将軍に就任した。この官職は、江戸幕府に至るまで、武家棟梁の象徴となる。この幕府成立の歩みは、一面では源氏一族の武家棟梁の座をめぐる抗争での頼朝の勝利の道である。源義仲・一条忠頼・源義経等はその敗者である。所載のニ点の史料は、頼朝の異母弟範頼失脚をめぐるものである。史料の『吾妻鏡』は範頼が伊豆国へ下向する記事だが、「ひとえに配流の如し」とあるように、流罪であった。これより先、範頼は反逆の疑いを懸けられていたが、彼の家人の当麻太郎が頼朝の寝所に潜んで逮捕された事件が発生した。この罪を問われたことになる。しかし、頼朝の長女の大姫の病気を理由に、犯人の当麻太郎は死罪から薩摩国流罪に減じられた。それ故、史料『保暦間記』に見るように、五月の富士の巻狩における曽我兄弟の仇討事件が、その原因である。この事件は単なる兄弟の仇討ではなく、広範な御家人を巻込んだ幕府の内部抗争である。範頼は頼朝が万一の場合にはその後継者になりえた。したがって、彼が主体的に係わったか否かは不確かであるが、これを機に対抗馬とされた範頼を除いたのが、この範頼伊豆国配流事件である。範頼はこの後『吾妻鏡』に所見しなくなるが、史料70に見られるように殺害された。殺害地については、伊豆国修善寺(静岡県修善寺町)説が有力で墓も残されているが、同国北条(同県韮山町)、武蔵国久良岐郡金沢(神奈川県横浜市)とする説もある。なお、翌年には甲斐源氏の遠江守安田義定も誅殺され、頼朝に対抗し得る源氏一族が相ついで滅ぼされた。

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