北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

正治元年(一一九九)十月二十八日
梶原景時弾劾文に、御家人六六人が署名し、足立遠元・安達盛長・景盛らが加わる。

74 吾妻鏡 正治元年十月二十八日条
廿八日丁亥、晴、巳剋、千葉介常胤、三浦介義澄、千葉太郎胤正、三浦兵衛尉義村、畠山次郎重忠、小山左衛門尉朝政、同七郎朝光、足立左衛門尉遠元、和田左衛門尉義盛、同兵衛尉常盛、比企右衛門尉能員、所右衛門尉朝光、民部丞行光、葛西兵衛尉清重、八田左衛門尉知重、波多野小次郎忠綱、大井次郎実久、若狭兵衛尉忠季、渋谷次郎高重、山内刑部丞経俊、宇都宮弥三郎頼綱、榛谷四郎重朝、安達藤九郎盛長入道、佐々木三郎兵衛尉盛綱入道、稲毛三郎重成入道、藤九郎景盛、岡崎四郎義実入道、土屋次郎義清、東平太重胤、土肥先次郎惟光、河野四郎通信、曽我小太郎祐綱、二宮四郎、長江四郎明義、諸二郎季綱、天野民部丞遠景入道、工藤小次郎行光、右京進仲業已下御家人、群集于鶴岡廻廊、是向背于景時叓一味条、不可改変之旨、敬白之故也、頃之、仲業持来訴状、於衆中、読上之、養鶏者不畜狸、牧獣者不育豺之由載之、義村殊感此句云々、各加暑判、其衆六十六人也、爰朝光兄小山五郎宗政雖載姓名、不加判形、是為扶弟危、傍輩皆忘身、企此叓之処、為兄有異心之条如何、其後、付件状於広元朝臣、和田左衛門尉義盛、三浦兵衛尉義村等持向之
[読み下し〕
74 廿八日丁亥、晴る、巳剋(みのこく)、千葉介常胤、(以下人名略)已下(いげ)の御家人、鶴岡廻廊に群集す、これ景時(梶原)に向背する事一味の条が、改変すべからざるの旨、敬白するが故なり、頃之(けいし)、仲業訴状を持ち来たり、衆中において、これを読み上ぐ、鶏を養う者は狸を畜(か)わず、獣を牧(やしな)う者は豺を育てざるの由、これを載(しる)す、義村ことにこの句に感ずと云々、おのおの暑判を加う、その衆六十六人なり、ここに朝光が兄小山五郎宗政(長沼)は姓名を戴すといえども、判形(はんぎょう)を加えず、これ弟の危うきを扶けんがため、傍輩みな身を忘れ、この事を企つの処、兄として異心あるの条いかん、その後、件(くだん)の状を広元(大江)朝臣に付す、和田左衛門尉義盛、三浦兵衛尉義村等これを持ち向う
〔解 説〕
幕政の一三人合議体制が発足したが、これは各勢力の均衡の上に成り立ち、かつ将軍頼家自身も独裁制を依然と目標にしていた。ここに幕府内部の抗争は高まり、この最初のものが本史料の梶原景時弾劾事件である。彼は、頼朝将軍の信頼厚く、その側近として侍所所司・別当と登用され、御家人の監察に腕をふるった。それ故、将軍独裁に欠かせぬ人材であったが、御家人一般から恨みをかう立場にあった。景時の結城朝光に対する密告をきっかけに、景時排斥運動が起り、本史料に見るように、千葉常胤以下の六六人の御家人が鶴岡八幡宮に集合し、景時弾劾文に署名して大江広元を通じて頼家に提出された。この中に武蔵国の御家人も多く含まれ、足立遠元と安逹盛長・景盛(盛長嫡子)が参加していた。この後景時は失脚し、翌年正月には京都へ向かう途中の駿河国で一族ととも に滅ぼされた。

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