北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

建仁三年(一二〇三)九月二日
比企能員の一族が鎌倉に滅亡し、婿の笠原親景も滅ぶ。

75 吾妻鏡 建仁三年九月二日条
二日丁卯、今朝、廷尉能員以息女(将軍家、妾、若公母儀也、元号若狭局)訴申、北条殿、偏可追討由也、凢家督外、於被相分地頭軄者、威権分于二、挑争之条不可疑之、為子為弟、雖似静謐御計、還所招乱国基也、遠州一族被存者、被奪家督世之事、又以無異儀云々、将軍驚而招能員於病床、令談合給、追討之儀、且及許諾、而尼御臺所隔障子、潜令伺聞此密事給、為被告申、以女房被奉尋遠州、(中略)遠州被仰合云、近年能員振威蔑如諸人条、世之所知也、剩将軍病疾之今、窺惘然之期、掠而称将命、欲企逆謀之由、慥聞于告、此上先可征之歟、如何者、大官令答申云、幕下将軍御時以降、有扶政道之号、於兵法者、不弁是非、誅戮・否、宜有賢慮云々、(中略)能員依企謀叛、今日可追伐、各可為討手者、蓮景云、不能発軍兵、召寄御前、可被誅之、彼老翁有何事之哉者、令還御亭給之後、此事猶有儀、(中略)遠州於此御亭、令供養薬師如来像(日来奉造之)給、葉上律師為導師、尼御臺所為御結縁、可有入御云々、遠州以工藤五郎為使、被仰遣能員之許云、依宿願、有仏像供養之儀、御来臨可被聴聞歟、且又以次可談雜叓者、早申可予参之由、御使退去之後、廷尉子息親類等諫云、日来非無計儀事、若依有風聞之旨、預専使歟、無左右不可被参向縦雖可被参、令家子郎従等、着甲冑帯弓矢、可被相従云々、能員云、如然之行粧、敢非警固之俑、謬可成人疑之因也、当時能員猶召具甲冑兵士者、鎌倉中諸人皆可遽騒、其事不可然、且為仏事結縁、且就御譲補等事、有可被仰合事哉、忿可参者、(中略)小時廷尉参入、着平礼白水干葛袴、駕黒馬、郎等二人、雑色五人有共、入惣門、昇廊沓脱、通妻戸、擬参北面、于時蓮景、忠常等立向于造合脇戸之砌、取廷尉左右手、引伏于山本竹中、誅戮不廻踵、遠州出於出居見之給云々、廷尉僮僕奔帰宿廬、告事由、仍彼一族郎従等引籠一幡君御館、(号小御所)、謀叛之間、未三尅、依尼御臺所仰之、為追討件輩、被差遣軍兵、所謂、江馬四郎殿、同太郎主、武蔵守朝政、小山左衛門尉朝政、同五郎宗政、同七郎朝光、畠山二郎重忠、榛谷四郎重朝、三浦平六兵衛尉義村、和田左衛門尉義盛、同兵衛尉常盛、同小四郎景長、土肥先二郎惟光、後藤左衛門尉信康、所右衛門尉朝光、尾藤次知景、工藤小次郎行光、金窪太郎行親、加藤次景廉、同太郎景朝、仁田四郎忠常已下如雲霞、各襲到彼所、比企三郎、同四郎、同五郎、河原田次郎、(能員猶子)、笠原十郎左衛門尉親景、中山五郎為重、糟屋藤太兵衛尉有季(巳上能員三人婿)等防戦、敢不愁死之間、挑戦及申剋、景朝、景廉、知景、景長等、并郎従数輩被疵頗引退、重忠入替壮カ之郎従責攻之、親景等不敵彼武威、放火于館、各於若君御前自殺、若君同不免此殃給、廷尉嫡男余一兵衛尉仮姿於女人、雖遁出戦場、於路次、為景廉被枭首、其後、遠州遣大岳判官時親、被実検死骸等云々、入夜被誅渋河刑部丞、依為能員之舅也
〔読み下し〕
75 二日丁卯、今朝、廷尉能員(比企)、息女(将軍家(源頼朝)の妾、若公(一幡)の母儀なり、もと若狭局と号す)をもって訴え申す、北条(時政)殿、ひとえに追討すべきの由なり、およそ家督の外に地頭職相分かたるるにおいては、威権二に分かれ、挑戦の条、これを疑うべからず、子たり弟たり、静謐の御計らいに似たりといえども、かえって乱国の基を招く所なり、遠州(北条時政)の一族存ぜらるれば家督の世を奪わるるの事、またもって異儀なからんと云々、将軍驚きて能員を病床に招き、談合せしめ給う、追討の儀、かつうは許諾に及ぶ、しかして尼御台所(北条政子)障子を隔てて、ひそかにこの密事を伺い聞かしめ給い、告げ申されんがため、女房をもって遠州に尋ね奉らる、(中略)遠州仰せ合せられて云わく、近年能員威を振い、諸人を蔑如(べつじょ)するの条、世の知る所なり、あまつさえ将軍病疾の今、惘然の期を窺い、掠めて将命と称し、逆謀を企てんと欲するの由、たしかに告を聞く、この上まずこれを征すべきか、いかんとてえり、大官令(大江広元)答え申して云わく、幕下将軍(源頼朝)の御時より以降、政道を扶くの号あり、兵法においては、是非を弁ぜず、誅戮や否や、よろしく賢慮あるべしと云々、(中略)能員謀叛を企つるによって、今日追伐すべし、おのおの討手たるべしてえれば、蓮景云わく、軍兵を発するにあたわず、御前に召し寄せ、これを誅せらるべし、かの老翁何事あらんやてえれば、御亭に還らしめ給うの後、この事なお儀あり、(中略)遠州この御亭において、薬師如来の像(日来(ひごろ)これを造り奉る、)を供養せしめ給う、葉上(栄西)律師導師たり、尼御台所御結縁のため、入御あるべしと云々、遠州、工藤五郎をもって使として、能員のもとに仰せ遣わされて云わく、宿願により仏像供養の儀あり、御来臨ありて聴聞せらるべきか、かつうはまた次をもって雑事を談ずべしてえれば、早く予参すべきの由を申す、御使退去の後、廷尉が子息親類等諫めて云わく、日来計儀の事なきにあらず、もし風聞の旨あるにより専使に預るか、左右(とこ)なく参向せらるべからず、たとい参らるべしといえども、家子郎従等をして、甲冑を着し、弓矢を帯せしめ、相従えらるべしと云々、能員云わく、しかる如きの行粧、あえて警固の備えにあらず、謬って人の疑を成すべきの因なり、当時能員なお甲冑の兵士を召し具せば、鎌倉中の諸人みな遽(にわ)かに騒ぐべし、その事しかるべからず、かつうは仏事結緣たり、かつうは御譲補等の事に就き、仰せ合せらるべき事あらんや、いそぎ参るべしてえり、(中略)小時して廷尉参入す、平礼、白水干に葛袴を着し、黒馬に駕す、郎等二人、雑色五人共にあり、惣門に入り、廊の沓脱に昇り、妻戸を通り、北面に参らんと擬(はか)る、時に蓮景、忠常等、造り合わせの脇戸の砌に立ち向い、廷尉が左右の手を取り、山本の竹の中に引き伏し、誅戮(ちゅうりく)踵(きびす)を廻らさず、遠州出居に出でてこれを見給うと云々、廷尉が僮僕宿盧に奔り帰り、事の由を告ぐ、よりてかの一族郎従等、一幡君の御館(小御所と号す、)に引き籠り、謀叛の間、未の三尅、尼御台所の仰せにより、件の輩(ともがら)を追討せんがため、軍兵を差し遣わさる、いわゆる(人名略)、雲霞の如く、おのおのかの所に襲い到る、比企三郎・同四郎(時員)・同五郎・河原田次郎(能員猶子)・笠原十郎左衛門尉親景・中山五郎為重・糟屋藤太兵衛尉有季(已上三人能員が婿)等防戦す、あえて死を愁えざるの間、挑戦申の剋に及ぶ、景朝・景廉・知景・景長等、ならびに郎従数輩疵を被りすこぶる引き退く、重忠、壮カの郎従を入替えこれを責めに攻む、親景等かの武威に敵せず、火を館に放ち、おのおの若君の御前において自殺す、若君同じくこの殃(わざわい)を免がれ給わず、廷尉が嫡男余ー兵(比企)衛尉、姿を女人に仮り戦場を遁れ出づといえども、路次において景廉がため枭首せらる、その後遠州、大(おか)岳判官時親を遣わし、死骸等を実検せらると云々、夜に入り渋河刑(兼忠)部丞を誅せらる、能員の舅たるによってなり
〔解 説〕
将軍源頼家は、十三人の合議制によりその独裁権を制肘されたが、若手の側近集団を形成させ権力の保持を図った。この中核に位置したのが比企氏である。比企氏は比企郡を本貫とする武蔵国の有力御家人で、頼朝・頼家二代の乳母を出し、かつ当主能員の娘若狭局が頼家の長男一幡の母という、二重の身内関係を源氏将軍家に持っていた。また、頼朝乳母の比企尼(能員伯母)の三人娘が安達盛長・河越重頼・平賀義信に嫁いでいるように、その姻戚関係は武蔵国支配の要に位置していた。それ故、信濃・上野両国守護の能員は頼家の側近第一であった。武相両国は幕府の生命線であり、武蔵国の掌握は幕府の実権を握るための必須条件である。したがって、武蔵国の霸権、すなわち幕府の覇権をめぐって、権力闘争が惹起する。また、頼家の舅北条時政と比企能員とが外戚権をめぐって対抗していた。時政は、出身地伊豆国を拠点に、駿河・遠江国へと勢力を広げ、伊豆・駿河両国守護で遠江守であった。かくて、箱根山の西より鎌倉をめざす時政と、多摩川の北よりの能貝とが激突するのである。
ここに所載した史料は、この両者の激突を示すものである。史料は、北条氏から見た比企氏「討滅」の経緯である。これに対し『愚管抄』には、都から中立の立場で見た見解が述べられている。両書の内容には差異があるが、『愚管抄』の方により真実が述べられているといわれる。いずれにせよ、頼家重病という危機の中で、後継について頼家・比企氏側=頼家長男一幡と、母政子・北条氏側=頼家弟千幡に勢力が分れた。そこで、名越(鎌倉市大町三丁目)の自亭に仏事供養を名目として時政は能員を誘い、暗殺するや、直ちに比企氏一党を攻撃した。能員の婿笠原親景等が防戦したが、畠山重忠の猛攻の前に潰え、一党は滅亡した。ついで、後楯を失った頼家を伊豆国修善寺に幽閉し、千幡(実朝)を三代将軍に据えた。以上を、比企氏の乱と呼ぶが、その実体は北条氏のク—デターといった方がよい。この乱の結果、武蔵国の有力御家人の比企氏が潰え、娘婿の武蔵守平賀朝政(義信子)を擁して、時政が同国支配に乗出すとともに、彼は政所別当に就任し、後に初代執権とされ、幕府の第一人者になった。

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