北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

元久二年(一二〇五)六月二十二日
畠山重忠・重秀父子は二俣川に滅ぶ。幕府軍の先陣を安達景盛らが勤める。

77 吾妻鏡 元久二年六月二十二日条
廿二日戊申、快晴、寅尅、鎌倉中驚遽、軍兵競走于由比浜之辺、可被誅謀叛之輩云々、依之畠山六郎重保、具郎従三人向其所之間、三浦平六兵衛尉義村奉仰、以佐久満太郎等、相囲重保之処、雖諍雌雄不能破多勢主従共被誅云々、又畠山次郎重忠参上之由、風聞之間、於路次可誅之由、有其沙汰相州已下被進発軍兵悉以従之、(中略)大手大将軍相州也、先陣葛西兵衛尉清重、後陣堺平次兵衛尉常秀、大須賀四郎胤信、国分五郎胤通、相馬五郎義胤、東平太重胤也、其外、足利三郎義氏、小山左衛門尉朝政、三浦兵衛尉義村、同九郎胤義、長沼五郎宗政、結城七郎朝光、宇都宮弥三郎頼綱、筑後左衛門尉知重、安達藤九郎右衛門尉景盛、中条藤右衛門尉家長、同茢田平右衛門尉義季、狩野介入道、宇佐美右衛門尉祐茂、波多野小次郎忠綱、松田次郎有経、土屋弥三郎宗光、河越次郎重時、同三郎重員、江戸太郎忠重、渋河武者所、小野寺太郎秀通、下河辺庄司行平、薗田七郎、并大井、品河、春日部、潮田、鹿島、小栗、行方之輩、児玉、横山、金子、村山党者共、皆揚鞭、関戸大将軍式部丞時房、和田左衛門尉義盛也、前後軍兵、如雲霞兮、列山満野、午尅各於武蔵国二俣河、相逢于重忠、々々去十九日出小衾郡菅屋館今着此沢也、折節舎弟長野三郎重清在信濃国、同弟六郎重宗在奥州、然間相従之輩、二男小次郎重秀、郎従本田次郎近常、榛沢六郎成清已下百三十四騎、陣于鶴峰之麓、而重保今朝蒙誅之上、軍兵又襲来之由、於此所聞之、近常、成清等云、如聞者、討手不知幾千万騎、吾衆更難敵件威勢、早退帰于本所、相待討手、可遂合戦云々、重忠云、其儀不可然、忘家忘親者、将軍本意也、随而重保被誅之後、不能顧本所、去正治之比、景時辞一宮館、於途中伏誅、似惜暫時之命、且又兼似有陰誅企、可耻賢察歟、尤可存後車之誠云々、爰襲来軍兵等、各懸意於先陣、欲貽誉於後代其中、安達藤九郎右衛門尉景盛引卒野田与一、加世次郎、飽間太郎、鶴見平次、玉村太郎、与藤次等畢、主従七騎進先登、取弓挟鏑、重忠見之、此金吾者、弓馬放遊旧友也、抜万人赴一陣、何不感之哉、重秀対于彼、可軽命之由加下知、仍挑戦及数反、加治次郎宗季已下多以為重忠被誅、凢弓箭之戦、刀剣之諍、雖移尅、無其勝負之処、及申斜、愛甲三郎季隆之所発箭中重忠(年四十二、)之身、季隆即取彼首、献相州之陣、尔之後、小次郎重秀(年廿三、母右衛門尉遠元女、)并郎従等自殺之間、綽属無為
〔読み下し〕
77 廿二日戊申、快晴、寅尅(とらのこく)、鎌倉中驚遽(きょうぎょ)す、軍兵由比が浜の辺に競い走る、謀叛の輩(ともがら)を誅せらるるべしと云々、これによりて畠山六郎重保、郎従三人を具し、その所に向うの間、三浦平六兵衛尉義村仰せを奉り、佐久満太郎等をもって、重保を相囲むの処、雌雄を諍うといえども、多勢を破るに能わず、主従共に誅せらるると云々、また畠山次郎重忠参上の由、風聞するの間、路次において誅すべしの由、その沙汰あり、相州(北条義時)已下進発せられ、軍兵ことごとくもってこれに従う、(中略)大手の大将軍は相州なり、先陣は葛西兵衛尉清重、後陣は堺(千葉)平次兵衛尉常秀(以下人名略)みな鞭を揚ぐ、関戸の大将軍は式部丞時房(北条)、和田左衛門尉義盛なり、前後の軍兵、雲霞の如く、山に列なり野に満つ、午尅(うまのこく)、おのおの武蔵国二俣河において、重忠に相逢う、重忠去んぬる十九日、小衾郡菅屋館を出で、いまこの沢に着くなり、おりふし舎弟長野三郎重清は信濃国にあり、同じく弟六郎重宗は奥州にあり、しかる間、相従うの輩、二男小次郎重秀、郎従本田次郎近常、榛沢六郎成清已下百三十四騎、鶴峰の麓に陣す、しこうして、重保今朝誅を蒙るの上、軍兵また襲来の由、この所においてこれを聞く、近常、成清等云わく、聞くが如くんば、討手幾千万騎を知らず、吾衆さらに件(くだん)の威勢に敵しがたし、はや本所に退帰し、討手を相待ちて合戦を遂ぐべしと云々、重忠云わく、その儀しかるべからず、家を忘れ親を忘るるは、将軍の本意なり、したがって重保誅せらるるの後、本所を顧みるにあたわず、去んぬる正治のころ、景時(梶原)一宮の館を辞し、途中において誅に伏す、暫時の命を惜むに似たり、かつうはまた兼て陰謀の企あるに似たり、賢察を耻ずべきか、もっとも後車の誡と存ずべしと云々、ここに襲来の軍兵等、おのおの意を先陣に懸け、誉を後代に貽さんと欲す、その中、安達藤九郎右衛門尉景盛、野田与一・加世(治)次郎・飽間太郎・鶴見平次・玉村太郎・与藤次等を引卒しおわんぬ、主従七騎先登に進み、弓を取り鏑を挟む、重忠これを見、この金吾は、弓馬放遊の旧友なり、万人を抜きんでて一陣に赴く、なんぞこれを感ぜざらんや、重秀彼に対し、命を軽んずべきの由、下知を加う、よりて挑戦数反に及ぶ、加治次郎宗(家)季已下多くをもって重忠がため誅せらる、およそ弓箭の戦い刀剣の靜い尅を移すといえども、その勝負なきの処、申(さる)の斜に及び、愛甲三郎季隆の発する所の箭、重忠(年四十二、)の身に中(あた)る、季隆即彼(そくか)の首を取り、相州の陣に献ず、しかるの後、小次郎重秀(年廿三、母右衛門尉遠元女、)ならびに郎従等自殺するの間、こと無為に属す
〔解 説〕
比企氏を滅ぼし、武蔵国支配を進めようとする北条時政にとって、次の目標は畠山重忠であった。重忠は、同国最大の秩父氏族の嫡系で、同国留守所総検校職として在庁官人の最右翼に位置し、国内の中小御家人を統率する立場にあった。重忠は時政の娘婿(重保の母)であったが、後妻牧氏の娘婿である武蔵守平賀朝政(京都守護として在京)と結んで武蔵国の支配を図る時政にとって、重忠の存在は大きな障害であった。
本史料は、畠山重忠父子が二俣川(神奈川県横浜市旭区)に幕府の大軍と戦い滅ぶ記事である。本日早朝、先に鎌倉に到着していた重忠の子重保が誅殺された。ついで、十九日に菅谷館(嵐山町)を出立した重忠を討つために、大軍が出擊した。鎌倉街道中道を行く大手軍は大将軍北条義時(時政嫡子)が率い、千葉・小山・三浦氏等の外、武蔵国では安達景盛・中条家長・河越重時・江戸忠重等の有力御家人や大井一族、武蔵七党の児玉・横山・村山党等が従軍した。上道を行く搦手軍の大将軍は北条時房(義時弟)・和田義盛であった。これに対して、兄弟が他国にいた重忠は、わずか百三十四騎を率いるのみであった。二俣川に幕府の大軍を目にした重忠は、敢然と決戦を挑んだ。幕府軍の先駆けは安達景盛ら主従七騎であった。重忠は景盛家人の加治家季を討取る等、奮戦したが、午後四時過ぎ、戦死し、ついで息子の重秀(母は足立遠元の娘)以下も自殺し、畠山氏は滅亡した。
さて、本史料により、景盛の家人に武蔵国の加治(武蔵七党の丹党出身)・鶴見・野田氏と上野国の飽間・玉村氏が確認され、しかも彼等の内には御家人もいる。ここに、安達氏は武蔵・上野両国に御家人級の中小武士を家人化するほど、成長したことを示している。また、足立氏は、この合戦に参加していないようで、その姻戚関係からして、打撃を受けたといえる。慕府内の序列も、安達氏が足立氏より上位に立つことになる。
畠山氏の滅亡は、時政・牧氏と政子・義時との抗争を顕在化し、牧氏の変を生ずる。その過程で、畠山氏庶流の稲毛重成・棒谷重朝が滅び、時政は失脚し、朝政も誅殺され、義時の勝利に終わる。かくて、秩父氏族嫡系の畠山・小山田氏系は一挙に滅亡し、武蔵守平賀朝政も消え、同国の支配構成に一大変動をもたらした。武蔵国の支配は、義時を中核とする北条氏の下に新展開を迎える。また、義時は父に替わり執権に就任し、慕府の第一人者となった。

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