北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

承元四年(一二一〇) 一月十四日
北条時房は、北条氏として初めて、武蔵守に任じられる。ついで、武蔵国の行政に取り組む。

78 将軍執権次第(1) 承久三年条
承久三年(辛巳)
(前略)
時房(北条)、(号大仏殿相模守 従五位上、)
時政三男、元時連、六月十四日入洛住南方、元久二年三月廿八日任主殿権助、四月十日式部丞、(九月)九日従五位下、同日任遠江守、九月廿一日駿河守、承元四年正月十四日武蔵守、建保五年十二月十三日相模守
(後略)
 
79 吾妻鏡 承元元年二月二十日条
廿日丁卯、霽、時房朝臣去月十四日任武蔵守之間、国務事、任故武蔵守義信入道之例、可被沙汰之旨被仰下云々
 
80 吾妻鏡 承元元年三月二十日条
廿日壬辰、武蔵国荒野等可令開発之由、可相触地頭等之趣、被仰武州云々、広元朝臣奉行之云々
 
81 吾妻鏡 承元四年三月十四日条
十四日壬寅、被造武蔵国田文(2)国務条々更定之、当州者、右大将家御代初、為一円朝恩所令国務給也、仍建久七年雖被遂国検(3)、未及目録沙汰云々
 
82 吾妻鏡 建暦二年二月十四日条
十四日辛卯、武蔵国々務間事、時房朝臣被致興行沙汰於郷々被補郷司軄(4)、而匠作泰時、聊雖有被執申之旨、任入道武蔵守義信国務之例、可令沙汰之由被仰下之間、所存其趣也、難領状之由、被答申云々
〔読み下し〕
78
79廿日丁卯、霽る、時房(北条)朝臣、去んぬる月十四日、武蔵守に任ずるの間、国務の事、故武蔵守義信(平賀)入道の例に任せ、沙汰せらるべきの旨、仰せ下さると云々
80廿日壬辰、武蔵国荒野等開発せしむべしの由、地頭等に相触るべきの趣、武州(北条時房)に仰せらると云々、広元(大江)朝臣これを奉行すと云々
81十四日壬寅、武蔵国の田文を造られ、国務の条々さらにこれを定む、当州は、右大将(源頼朝)家の御代初めに、一円朝恩として、国務せしめ給う所なり、よりて建久七年国検を遂げらるといえども、いまだ目録の沙汰に及ばずと云々
82十四日辛卯、武蔵国々務の間の事、時房朝臣興行の沙汰を致され、郷々において郷司職(ごうじしき)を補せらる、しかるに匠作泰時(北条)、いささか執り申さるるの旨ありといえども、入道武蔵守義信が国務の例に任せ、沙汰せしむべきの由、仰せ下さるるの間、その趣を存ずる所なり、領状しがたきの由、答え申さると云々
〔注〕
(1)鎌倉期の将軍・執権・六波羅探題の任免を記した年代記。南北朝期に成立
(2)大田文のこと 図田帳・田数帳ともいい、一国単位に、荘園・公領(国衙領)を問わず、すべての田地の面積・領有関係等を記録した土地台帳で、課役賦課の原簿となる。本来は、国守が作成権を持ち、国衙在庁が作成し保管されたが、鎌倉幕府はその権限を吸収し、守護がそれに命じて作成するようになる。
(3)惣検ともいい、一国全体の田地の実態調査のことで、大田文作成の基礎となる。国衙にこの調査権がある。
(4)律令制的土地制度が崩壊した十一世紀以後、国衙の支配外の荘園に対して、国衙の支配下にある公領(国衙領)は、郡・郷・保・名等の国衙に直結する徴税単位として把握される。この徴税単位毎に、領有権を認められ、徴税を請負ったのが、郷の場合は郷司職であった。彼等の多くはその地の開発領主である。
〔解 説〕
牧氏の変で武蔵守平賀朝政が誅殺され、平賀氏の武蔵守時代が終わった。この後、源氏一族の足利義氏を挟んで、北条氏の国守が初めて登場する。ここに所載した五点の史料は、その北条時房と当国行政に関するものである。時房の当国守任官の時期は、史料78では承元四年(一二一〇)、史料79では同元年(一二〇七)と異にしている。幕府の最高公文書である将軍家政所下文に、別当として署判している時房の官名を検討すると、史料78の年次が正しいことが立証される。ここに、兄義時の相模守についで、時房の武蔵守と武相両国司が北条氏の掌中に入った。
武蔵守に就任した時房が植極的に同国経営を開始したことを示すのが、史料80・81・82の三点である。史料80の武蔵国荒野開発令は、当然ながらこの年の出来事である。史料81は、大田文作成と国務条々改定である。ここで、「一円朝恩」とは、史料59で述べた、元暦元年(一一八四)に関東御分国になったことであり、「建久七年国検」とは、建久七年(一一九六)に当国の惣検がなされたことを示している。ついで、史料82は、時房が先例にならい郷司職を任命したものである。幕府は、従前の荘園領主や国衙の支配の下にあった所職体系を、幕体府が任命する地頭職に集約し、御家人をその支配から開放させていった。幕府は、地頭職の任免権を保持することで、御家人の所領保証をし、将軍との封建的主従関係を結んだ。
しかし武蔵では、先に強引に畠山氏を滅ぼしたことを考慮し、時房は先例にしたがい、武蔵の郷々における郷司職任命を幕府に諮った。しかし、甥の泰時(義時嫡子)はこれに対し異なる見解を出した。この内容は地頭職の一本化、すなわち北条氏の支配に不必要な郷司職の廃止と考えられる。これは急進的支配であったため、時房の漸進的支配が採用されたのである。

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