北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

建保元年(一二一三)五月三日
和田義盛・横山時兼一党が、鎌倉に滅亡する。

83 吾妻鏡 建保元年五月二日条
二日壬寅、陰、(中略)申刻、和田左衛門尉義盛率伴党、忽襲将軍幕下(中略)相分百五十軍勢於三手先囲幕府南門幷相州御第(小町上)、西北両門(中略)酉刻、賊徒遂囲幕府四面、摩旗飛箭、相模修理亮泰時、同次郎朝時、上総三郎義氏等防戦尽兵略、而朝夷名三郎義秀敗惣門、乱入南庭攻撃所籠之御家人等、剰縦火於御所郭内室屋、不残一宇焼亡、依之将軍家入御于右大将軍家法花堂(中略)臨曉便義盛漸兵尽箭窮、策疲馬遁退于前浜辺
 
84 吾妻鏡 建保元年五月三日条
三日癸卯、小雨灑、義盛絶粮道疲乗馬之処、寅剋、横山馬允時兼引率波多野三郎(時兼聟)、横山五郎(時兼甥)以下数十人之親昵従類等馳来于腰越浦之処、既合戦最中也、(時兼与義盛叛逆事謀合時、以今日定箭合期仍今来)仍其党類皆弃蓑笠於彼所積而成山云々、然後加義盛陣、義盛得時兼之合力当新覊之馬彼是軍兵三千騎、尚追奔御家人等(中略)仍於由比浦幷若宮大路、合戦移時凢自昨夕至此昼攻戦不已、軍士等各尽兵略云々(中略)酉剋、和田四郎左衛門尉義直(年卅七)、為伊具馬太郎盛重被討取、父義盛(年六十七)、殊歎息、年来依令鐘愛義直所願禄也、於今者、励合戦無益云々、揚声悲哭、迷惑東西、遂被討于江戸左術門尉能範所従云々、同男五郎兵衛尉義重(年卅四)、六郎兵衛尉義信廿八、七郎秀盛十五、以下張本七人共伏誅、朝夷名三郎義秀卅八、并数率等出海浜、掉船赴安房国、其勢五百騎、船六艘云々、又新左衛門尉常盛四十二、山内先次郎左衛門尉、岡崎余一左衛門尉、横山馬允、古郡左衛門尉、和田新兵衛入道、以上大将軍六人、遁戦場逐電云々(後略)
 
85 吾妻鏡 建保元年五月四日条
四日甲辰、小雨降、古郡左衛門尉兄弟者、於甲斐国坂東山波加利之東競石郷二木自殺矣、和田新左衛門尉常盛(年四十二)、幷横山右馬允時兼(年六十一)、等者於坂東山償原別所自殺云々、時兼者横山権守時広嫡男也、伯母据幣(時広妹也)、者、為義盛妻、妹者又嫁常盛、故今与同此謀叛云々、件両人之首今日到来、凢所梟于固瀬河辺之首二百三十四云々
〔読み下し〕
83二日壬寅、陰る(中略)申刻(さるのこく)、和田左衛門尉義盛、伴党を率い、たちまちに将軍(源実朝)の幕下を襲う、(中略)百五十の軍勢を三手に相分ち、まず幕府の南門ならびに相州の御第小町上、西北の両門を囲む、(中略)酉剋(とりのこく)、賊徒ついに幕府の四面を囲み、旗を摩かせ箭を飛ばす、相模修理亮泰時(北条)、同次郎朝時、上総三郎義氏(足利)等、防戦兵略を尽す、しかるに朝夷名三郎義秀惣門を敗り、南庭に乱入し、籠る所の御家人等を攻撃す、あまつさえ火を御所に縦(はな)つ、郭内の室屋、一宇も残さず焼亡す、これによりて、将軍家、右大将軍家の法花堂に入り御う(中略)暁更に臨み、義盛ようやくに兵尽き箭窮まり、疲馬に策って、前浜辺に遁退す
84三日癸卯、小雨灑(そそ)ぐ、義盛粮道を絶たれ、乗馬を疲らすの処、寅剋、横山馬允時兼、波多野三郎(時兼聟)、横山五郎(時兼甥)以下(いげ)数十人の親昵・従類等を引き率れ、腰越の浦に馳せ来たるの処、すでに合戦の最中なり(時兼義盛と、叛逆の事謀り合うの時、今日をもつて箭合の期と定む、よりて今来たる)、よりてその党類みな蓑笠をかの所に弃て、積みて山と成ると云々、しかる後、義盛が陣に加わる、義盛、時兼の合力を得、新覊(しんき)の馬に当たる、かれこれ軍兵三千騎、なお御家人等を追い奔らす、(中略)よりて由比浦ならびに若宮大路において、合戦時を移す、およそ昨夕よりこの昼に至り、攻戦已まず、軍士等おのおの兵略を尽すと云々、(中略)酉剋、和田四郎左衛門尉義直(年卅七、)伊具馬太郎盛重がために討ち取らる、父義盛(年六十七、)ことに歎息す、年来鐘愛せしむにより義直に禄を願う所なり、今においては、合戦に励むとも益なしと云々、声を揚げ悲哭す、東西に迷惑し、ついに江戸(大江)左衛門尉能範が所従に討たると云々、同男五郎兵衛尉義重(年卅四、)六郎兵衛尉義信(廿八、)七郎秀盛(十五、)以下張本(ちょうほん)七人共に誅に伏す、朝夷名三郎義秀卅ハ、ならびに数率等海浜に出で、船に掉(棹)さして安房国に赴く、その勢五百騎、船六艘と云々、また新左衛門尉常盛(四十二、)山内先次郎左衛門(政宜)尉、岡崎余一左衛門(実忠)尉、横山馬允(時兼)、古郡左衛門(保忠)尉、和田新兵衛(朝盛)入道、以上大将軍六人、戦場を遁れ逐電すと云々
85四日甲辰、小雨降る、古郡左衛門尉兄弟は、甲斐国坂東山波加利の東競石郷二木において自殺す、和田新左衛門尉常盛(年四十二、)ならびに横山右馬允時兼(年六十一、)等は、坂東山償原別所において自殺すと云々、時兼は横山権守時広が嫡男なり、伯母(時広妹なり)は義盛が妻たり、妹はまた常盛に嫁す、故に今この謀叛に与同すと云々、件の両人の首、今日到来す、およそ固瀬河の辺に梟する所の首、二百三十四と云々
〔解 説〕
武蔵国を支配下に置いた北条氏の次の標的は、三浦一族に向けられた。なかでも長老の侍所別当和田義盛が狙われた。挑発された彼は、嫡系の三浦義村(従兄弟)の与同をえて、蜂起を決意した。だが、義村はこの企てを北条義時に告げた。そこで、予定を早め、史料83に見るように、二日午後四時頃、義盛父子は同志を率いて、大倉幕府と義時の小町亭を攻擊し、戦端を切った。午後六時風、義盛の三男朝比奈義秀は幕府惣門を突破し、火を放った。幕府は焼失し、将軍源実朝も裏山の故頼朝の法華堂へ避難した。戦闘は深夜に及び、義盛は矢種が尽き疲労し、暁に及びようやく海辺へと後退した。史料84に見るように、三日早朝、約束の期日に同志が駆け付けた。その中核は、武蔵七党の一つ、多摩郡を中心に分布する小野姓横山党の惣領で、義盛の姻戚に当たる横山時兼(本貫地は東京都八王子市)である。西より攻める和田軍に対し、幕府軍は鎌倉のメイン・ストリー卜若宮大路を防禦線とし、両軍は激戦を繰り返した。しかし、夕刻に至り、義盛の・四男義直が戦死すると、和田軍は敗勢となり、義盛は大江能範の家人に討たれ、一党は壊滅した。そして、史料85に見るように、戦場より離脱した時兼、古郡保忠(横山党出身)等は、保忠の所領である甲斐国波加利荘(山梨県大月市)において自殺し、ここに武蔵国の名族横山氏嫡系が滅亡した。鎌倉を二日間にわたり戦火に包んだ和田合戦は終結し、北条氏と張り合えた和田義盛及び横山・土屋・山内・渋谷等の武相両国の多数の御家人が討死した。そして執権北条義時は、従前の政所別当に加え、侍所別当も兼帯し、北条氏執体制権を確立させた。

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