北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

承久三年(一二二一)六月十五日
幕府軍は、後鳥羽院を破り入京する。この乱に、足立氏・安達氏・吉見氏などの武蔵国御家人が活躍する。

86 吾妻鏡 承久三年五月十九日条
十九日壬寅(中略)二品招家人等於簾下、以秋田城介景盛(1)、示含日、皆一心而可奉、是最期詞也、故右大将軍征罰朝敵、草創関東以降、云官位、云俸禄、其恩既高於山岳、深於溟渤、報謝之志浅乎、而今依逆臣之讒、被下非義綸旨、惜名之族、早討取秀康、胤義等、可全三代将軍遺跡、但欲参院中者、只今可申切者、群参之士悉応命、且溺涙申返報不委、只軽命思酬恩、寔是忠臣見国危、此謂歟、武家背天気之起、依舞女亀菊申状、可停止摂津国長江、倉橋両庄地頭軄之由、二箇度被下宣旨之処、右京兆不諾申、是幕下将軍時募勲功賞定補之輩、無指雜怠而難改由申之、仍逆麟甚故也云々、晚鐘之程、於右京兆館、相州、武州、前大膳大夫入道、駿河前司、城介入道等凝評議、意見区分、所詮固関足柄、筥根両方道路可相待之由云々、大官令覚阿云、群議之趣、一旦可然、但東士不一揆者、守関渉日之条、還可為敗北之因歟、任運於天道、早可被発遺軍兵於京都者、右京兆以両議、申二品之処、二品云、不上洛者、更難敗官軍歟、相待安保刑部蒸実光以下武蔵国勢、速可参洛者、就之、為令上洛、今日遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、信濃、上野、下野、陸奥、出羽等国々、飛京兆奉書(2)、可相具一族等之由、所仰家々長也
 
87 吾妻鏡 承久三年五月二十五日条
廿五日戊申、自去廿二日、至今暁、於可然東士者、悉以上洛、於京兆所記置其交名(3)也、各東海東山北陸分三道可上洛之由、定下之、軍士惣十九万騎也
 東海道大将軍、 従軍十万余騎云々
相州 武州 同太郎 武蔵前司義氏 駿河前司義村 千葉介胤綱
 東山道大将軍、 従軍五万余騎云々
武田五郎信光 小笠原次郎長清 小山新左衛門尉朝長 結城左衛門尉朝光
 北陸道大将軍、 従軍四万余騎云々
式部丞朝時 結城七郎朝広 佐々木太郎信実
 
88 吾妻鏡 承久三年六月五日条
五日戊午、辰刻、関東両将着于尾張国辺、合戦間事有評議、自此所、相分方々道、鵜沼渡、毛利蔵人、大夫入道西阿、池瀬、武蔵前司義氏、板橋、狩野介入道、摩免戸、武州、駿河前司義村以下数輩、(候侍輩也、)洲俣、相州、城介入道、豊島、足立、江戸、河越輩也
 
89 吾妻鏡 承久三年六月十四日条
十四日丁卯、霽、雷鳴数声、武州、越河不相戦者、難敗官軍由相計(中略)及卯三刻、兼義、春日刑部三郎貞幸等受命為渡宇治河伏見津瀬馳行(中略)其後、軍兵多水面並轡之処、流急未戦、十之二三死(中略)武州、武蔵前司等乗筏渡河、尾藤左近将監令平出弥三郎壊取民屋造筏云々、武州着岸之後、武蔵相模之輩殊攻戦(中略)官兵忘弓箭敗走、武蔵太郎進彼後、令征伐之(中略)相州於勢多橋与官兵合戦、及夜陰、親広、秀康、盛綱、胤義、棄軍陣帰洛(後略)
 
90 吾妻鏡 承久三年六月十五日条
十五日戊辰、陰(中略)辰刻、国宗捧院宣、於樋口河原、相逢武州、述子細(中略)其趣、今度合戦不起於叡慮、謀臣等所申行也、於今者、任申請、可被宣下、於洛中不可及狼唳之由、可下知東士者(中略)巳刻相州武州之勢着于六波羅
 
91 承久記 勢多合戦の事
海道の先陣相模守時房、同六月十二日、勢多の橋近く野路に陣をとる、早雄(はやりお)の者共、河端に押寄て見れば、橋中二間引落(おとし)て搔楯搔(かいだてかき)、山田次郎を始(め)として、山法師大勢陣を取(る)、相模守の手の者共、階見(はしみ)太郎・佐々目(太郎)・早川重三郎、三人橋爪に押寄て戦けるが、被射白(いしらまされ)て引て除(のく)、二番に江戸八郎・足立三郎(4)・讃岐太郎、三人桁(けた)を渡りけるが、余(り)に強く被射て、二人共に引退く、足立三郎、鎧は能(よし)、橋桁に鎧打羽吹て居たりけるが、向(ひ)より支(ささえ)て射ければ、堪兼(たえかね)て引退く、三番に村山党八人、桁を渡りけるが、其も余(り)に強く被射て引退(く)、四番に二十人計(ばかり)伴(ひ)たる兵(つはもの)、橋桁を渡りて、搔楯の際へ責寄(せ)たりけるが、余(り)に密(きび)しく射ける間(あひだ)、少々引退く、其中に熊谷平内左衛門・久目左近・岩瀬左近・同五郎兵衛・肥塚太郎・吉見十郎(5)・子息小次郎・広田小次郎、太刀を抜(い)て三の搔楯を切破て、鍰(しころ)を傾(かたぶけ)責(め)よする、山法師颯(さつ)と引て除(のき)にける、山田次郎是を見て、郎従等荒左近を使者にて、如何に大衆はあれ程の小勢には引せ給ふぞ、返させ給へ、後(うし)ろをば籠(こめ)んと申ければ、播磨竪者、引(く)議にては不候、帯(おび)くにて社(こそ)候へとて、返合(せ)て戦けり、山法師は徒歩(かちだち)の達者なり、其上、大太刀・長刀を持て重(しげ)く打ければ、武士は心こそ剛なれ共、小太刀にてあいしらひ戦(ふ)程に、九人が中、六人は搔楯の際に被切伏、平内左衛門尉是を見て、今は如何(いか)にも叶(ふ)まじと思ひて、其中に宗徒の者と見へける播磨竪者と組(ん)で臥(ふす)、平内左衛門、取(つ)てをさへて首を搔んとしける所に、竪者が下人の法師寄合て、長刀を持て、平内左衛門が押付を丁(ちやう)々と二打三打健(した)たかに被打て、傾く様にしける所を、山田次郎が郎従、荒左近落合て、平内左衛門が頸を取(る)、吉見十郎、子息小次郎が被切伏けるを、肩に引懸て河端迄(まで)延(のび)たりける、後より余に強(く)射ける間、子をば河へ投入(れ)、我身も河に飛入(る)、水練なりければ、水の底にて物具(もののぐ)脱捨(ぬぎすて)、裸に成(つ)て我方へ游(およ)ぎ帰て扶(たすか)りけり、今は久米左近一人残りて 身命を捨(て)戦(ひ)ける処に、ならの橘四郎・平五郎、橋桁を渡て続きたりけるを、乗越(へ)、面(おもて)に立(たつて)ぞ戦ける
〔読み下し〕
86十九日壬寅(中略)二品、家人等を簾下に招き、秋田城介景盛をもって、示し含めて日く、みな心を一にして奉るべし、これ最期(後)の詞なり、故右大将軍(源頼朝)朝敵を征罰し、関東を草創以降、官位と云い、俸禄と云い、その恩すでに山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ)よりも深し、報謝の志浅からんや、しかるに今逆臣の讒により、非義の綸旨を下さる、名を惜むの族(ともがら)、早く秀康・胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし、ただし院中に参らんと欲する者は、ただ今申し切るべしてえれば、群参の士ことごとく命に応じ、かつうは涙に溺れ返報を申すに委しからず、ただ命を軽んじ恩に酬いんことを思い、まことにこれ忠臣国の危うきに見わるとは、この謂か、武家天気に背くの起りは、舞女亀菊が申状により、摂津国長江、倉橋両庄の地頭職を停止(ちようじ)すべきの由、二箇度 宣旨を下さるるの処、右京兆諾し申さず、これ幕下将軍(源頼朝)の時、勲功の賞を募り定め補すの輩(ともがら)、指(さし)たる雑怠なくて改めがたき由、これを申す、よりて逆麟はなはだしき故なりと云々、晩鐘の程、右京兆の館において、相州・武州・前大膳大夫入道(大江広元)・駿河前司、城介入道等評議を凝らす、意見区分す、しょせん足柄、箱根両方の道路を固関して相待つべきの由と云々、大官令覚阿云わく、群議の趣、いったんはしかるべし、ただし東士一揆せずんば、関を守り日を渉(へ)るの条、かえって敗北の因たるべきか、運を天道に任せはやく軍兵を京都に発遣せらるべしてえれば、右京兆両議をもって、二品に申すの処、上洛せずんば、さらに官軍を敗りがたからんか、安保刑部丞実光以下の武蔵国の勢を相待ちてすみやかに参洛すべしてえれば、これにつきて、上洛せしめんがため、今日、遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥、出羽等の国々に、京兆の奉書を飛ばし、一族等を相具すべきの由、家々の長(おさ)に仰する所なり
87廿五日戊申、去んぬる廿二日より、今暁に至るまで、しかるべき東士においては、ことごとくもって上洛す、京兆においてその交名を記し置く所なり、おのおの東海・東山・北陸の三道に分ちて上洛すべきの由、これを定め下す、軍士すべて十九万騎なり(略)
88五日戊午、辰刻(たつのこく)、関東の両将(時房・泰時)、尾張国一宮の辺に着く、合戦の間の事、評議あり、この所より、方々の道に相分る、鵜沼の渡に毛利蔵人(季光)大夫入道西阿、池瀬に武蔵前司義氏、板橋に狩野介入道(宗茂)、摩免戸に武州・駿河前司以下の数輩(候侍の輩なり)洲俣に相州・城介入道・豊島・足立・江戸・河越の輩なり
89十四日丁卯、霽(はれ)る、雷鳴数声、武州、河を越えて相戦わずんば、官軍を敗りがたきの由、相計らう(中略)卯(うの)三刻に及び、兼義(柴田)春日刑部三郎貞幸等、命を受け宇治河を渡らんがため伏見津瀬に馳せ行く(中略)その後、軍兵多く水面に轡(くつばみ)を並ぶるの処、流れ急にしていまだ戦わざるに、十の二三は死す(中略)武州、武蔵前司等、筏に乗り河を渡る、尾藤左近将監(景綱)、平出弥三郎をして民屋を壊し取りて筏に造らしむと云々、武州岸に着くの後、武蔵・相模の輩ことに攻め戦う(中略)官兵、弓箭を忘れ敗走す、武蔵太郎かの後に進み、これを征伐せしむ(中略)相州、勢多の橋において官兵と合戦す、夜陰に及び、親広・秀康・盛綱(佐々木)・胤義、軍陣を棄てて帰洛す 、
90十五日戊辰、陰(くもり)(前略)辰刻、国宗(小槻)院宣を捧げ、樋口河原において、武州に相逢い、子細を述ぶ(中略)その趣、今度(こたび)の合戦は叡慮に起こらず、謀臣等が申し行う所なり、今においては、申請に任せ、宣下せらるべし、洛中において狼唳に及ぶべからざるの由、東士に下知すべしてえり(中略)巳刻、相州、武州の勢、六波羅に着く
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〔注〕
(1)安達景盛 建保六年(一二一八)、景盛は秋田城介に任官し、以後、彼の嫡系が世襲し、秋田城介氏(城氏)とも呼ばれる。
(2)「右京兆」は執権義時のことで、幕府執権が将軍の命を奉じて下達する文書形式である関東御教書をいう。
(3)散状ともいう。列記した名前、もしくはその書付のことで、儀式・法会・宿番・戦陣等で用いる。
(4)実名不詳 足立氏惣領の元春は、『吾妻鏡』では、八郎左衛門尉と表記され、承久元年(一二一九)を最後に所見しない。そこで、彼の兄弟か子息に相当するが、系図・『吾妻鏡』には実名の駭当する人物を見出せない。
(5)実名不詳 吉見氏は吉見郡を本貫とし、源頼朝の時に頼綱が活躍するが、その後、源範頼の孫二郎為頼が縁戚により吉見氏を名乗る。彼の孫義世が永仁四年(一二九六)に謀反に問われている(史料110)。以上から、為頼の吉見氏の名乗りは、承久の乱以降の可能性が高い。したがって、この吉見十郎・小次郎父子は頼綱の子孫と考えられる。
〔解 説〕
承久元年、鶴岡八幡宮社頭に将軍源実朝が暗殺され、源氏将軍は三代で断絶した。 後鳥羽院は、 公権の回復を策し、皇子将軍下向を拒否し、愛妾亀菊の所領の摂津国長江・倉橋両荘の地頭職撤廃を要求する等、強硬な態度を取った。幕府は、頼朝の血縁に繫がる摂政九条道家の子三寅(頼経)を擁立し、頼朝未亡人北条政子が「尼将軍」、すなわち将軍代行として政務を統轄した。勿論、実権は彼女の弟、執権義時が掌握していた。
かくて、京、鎌倉の両政権の間に暗雲が生じ、五月十五日、後鳥羽院は討幕の兵を挙げた。まず京都守護伊賀光季を討滅し、全国に義時追討の宣旨を下した。この報は、十九日、鎌倉に告げられた。尼将軍政子の下に参集した御家人に対して、安逹景盛を通じて、彼女は幕府成立以来の御恩を訴え、彼等の幕府への忠誠を得た。幕府は宿老会議を開き、即日、西上を決定し、遠江・信濃以東の十五か国(東国)に動員令を発した。史料87によると二十二日に出陣した幕府軍は、東海・東山・北陸三道から京都を目指し、十九万騎と称するほどの大軍であった。東海道方面軍の総指揮官は、相模守北条時房(義時弟)・武蔵守泰時(義時嫡子)の両将であり、この指揮下に、安達景盛、足立三郎以下、河越・江戸・豊島・佐々目・猪俣等の武蔵国勢が主力として進軍した。六月五日、史料88に見るように、公家方の防衛線、濃尾国境の木曽川に到達した。東海・東山軍の前に、翌日には木曽川の全線が突破された。この合戦で、墨俣渡(岐阜県墨俣町)を攻撃したのが、時房指揮下の安達・足立以下の武蔵国の軍勢であった。公家軍は総退却となり、京都近郊の勢多(滋賀県県大津市)・宇治(京都府宇治市)に最後の防衛線をしいた。
十三日、戦端は瀬田の唐橋(同市唐桶町)で開かれた。橋板を剝がし、楣を並べて防衛線をしく公家軍には、比叡山延曆寺の僧兵が第一線に加わっていた。先陣が足立郡佐々目郷(戸田市笹目等)を名字の地とする佐々目太郎等、二番が足立三郎・江戸八郎等、三番が武蔵七党の一つで入間郡に分布する村山党、四番が吉見十郎・小次郎父子・熊谷直国・久米(久目)家時等と、武蔵国御家人を中核としていた。しかし、敵の矢の飛ぶ中、桶桁を伝うこの強行策は犠牲者を続出し、熊谷直国以下が戦死し、吉見十郎は辛うじて川中に逃れた。時房は攻撃を停止させ、最初の攻撃は失敗した。一方、宇治方面では、総指揮官泰時に無断で、足利義氏・三浦泰村(義村嫡子)が抜駆けの先陣を切った。翌十四日、決戦の宇治方面の戦いを示すのが、史料89である。前夜の豪雨で増水する宇治川の敵前渡河は困難を極め、先陣は濁流に溺死する者が続出し、遂に泰時は嫡子時氏に渡河を命じ、不退転の意を示した。次いで、民家を壊して筏を作り、泰時以下の主力が渡河を強行し、大勢が決した。勢多方面でも公家軍は後退し、総崩れとなった。
史料90に見るように、この日、幕府軍は堂々の入京を遂げ、後鳥羽院に勝利したのである。院以下の首謀者を処断し、幕府、すなわち武家政権の権勢は、朝廷、すなわち公家政権に完全に上位することとなる。武蔵国を筆頭とする東国御家人は、三千箇所と称される没収地に、戦功の新恩として地頭職に任命され、西国に発展する一大契機となった。この東西両政権の対決を、承久の乱という。

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